海に浮かぶ月のはしっこ

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【読書】原書をコーヒー豆に例えたら、コーヒー豆を眺めながらコーヒーを淹れる人の淹れ方の違いをより考えてみたくなった

今週のお題が「読書の秋」とのことなので、先日原書を手に入れた話でも書こうと思います。

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という事で今回は"原作を一杯のコーヒーに例えたら…ついにブラックコーヒー、いや、コーヒー豆を手に入れた!"という話。
今回のコーヒー豆とは、"原書"の事です。ちなみに私が「英語なんてほとんど読めない」という事は先に書いておきます。つまり、私は「コーヒーを淹れられない人」。

コーヒーを入れられない人がコーヒー豆を眺めて、淹れてもらったコーヒーの違いをより味わう話。


なお、今記事はスティーブンソン著「ジキル博士とハイド氏」(1886年)のネタバレを含みますのでご了承ください。

"原作を一杯のコーヒーに例えたら"

"原作を一杯のコーヒーに例えたら"とは、以前友人とカフェで話していた事です。「もしも原作を一杯のコーヒーと仮定したら、映画化やコミカライズは元のコーヒーから様々な味付けがされた姿なのでは」という話。
snow-moonsea.hatenablog.jp
勿論、私は「オペラ座の怪人」にしても、映画版を最初に観てから原作を読んだものの、どちらも愛しています。たとえミュージカル映画版がもしもその文脈で言えば「カフェモカフロート・フラペチーノ、更にガムシロ投入!って感じ」だったとしても。(つまり恋愛要素を強めに出しまくってめっちゃ甘~くなっている)

光文社版の翻訳にはオペラ座の建物の図が書かれているのでキャラクターの行動範囲を理解しやすいです。


しかし、英語が読めない私にとっての海外作品のブラックコーヒー(原作)は今まで「翻訳」止まり。何となく翻訳者さんによって砂糖やミルクなどが入っている感覚はあれど、「原書」まで至らない事が99%。

…なのだけれど、今度ばかりは「元の姿を知りたい」、と思ったのである。
しかし洋書の場合、私は英語というスキルがないのでブラックコーヒーを飲む事すら難しい…。
という次第で、「原書」をまだ読める(飲める)ように加工されていない状態…コーヒー豆に例える事にしました。

ジキル博士とハイド氏』の原書

先日は洋書を購入するのが不慣れ過ぎて、原書購入に失敗していましたが…。
snow-moonsea.hatenablog.jp
(※誤って原文ではなく現代英語に再編集された版を購入してしまった)

かくして、私はついにジキル博士とハイド氏」の"原書"を手に入れたのである(*'▽')


あまりの薄さにびっくり。
50ページくらいしかありません…!

ううん、英文が細かくて目がチカチカする…!

原書に近いニュアンスを求めて

何故英語をろくに読めないくせに原書を買ったのかといえば、翻訳を数冊購入して見比べたところ、翻訳者の訳し方に喋り方だけではなく様々な部分に違いがあった為、「本当に原書に近い翻訳はどれなの?」という疑問を解決するため。

最近は会社で2冊の翻訳を重ねて見比べながら読んでいてビックリされましたが…

(こんな感じです)

しかしこう、じっくりと見比べると面白いくらい違います。


snow-moonsea.hatenablog.jp
上記の記事は「ジキル博士とハイド氏」関連の基本情報をまとめるためのものですが、読んだ翻訳での印象の違いなどで気づいたことがある度にちまちま書き足しています。


一応この作品に触れた事のない方向けに簡単に概要を書くと、
「物語の進行役である弁護士のガブリエル・ジョン・アタスンには医学博士のヘンリー・ジキルという親友がいる。
アタスンは、夜な夜な街で暴れまわっているというチビで不気味な青年エドワード・ハイドに親友が脅迫されていると思って彼を追う。
しかし、エドワード・ハイドはヘンリー・ジキルが薬で変身した姿だった」
という話です。

幾度も映画化されることによって色々な設定が付け加えられ、映画業界ではジキルおじさんに婚約者がいたり、ハイドがサイコキラーとして世間を騒がせたりするくだりが定着しているようです。ですが原作はとても短いお話で、メインの登場人物もアタスン、ジキル、ハイド、ラニヨンの4人しかいませんし、ハイドは連続殺人鬼ではありません。(ハイドのサイコキラー設定はハマー版映画からジャックザリッパーの要素が加えられたからみたいです)

原書も50ページほどしかありませんが、翻訳でさえ文庫本100ページくらい。しかし、SF、ミステリー、ブロマンス等の多くの要素を含み、短いお話ながらギュッと濃縮した、濃厚な感じがします。


最近前述の記事に書き足しましたが、恐らくは新潮文庫版(田口俊樹氏訳)より光文社版(村上博基氏訳)の方がスイスイ読めます。

ジキルとハイド (新潮文庫)

ジキルとハイド (新潮文庫)

ジーキル博士とハイド氏 (光文社古典新訳文庫)

ジーキル博士とハイド氏 (光文社古典新訳文庫)

翻訳者さんの文章の書き方だけでなく、文字サイズと行間のサイズの問題も大きいと思います。
新潮文庫は文字が大きめで行間は小さめ、光文社版は文字が小さめで、その分行間は少し大きめ。なお、創元推理文庫は更に文字が小さく、行間が大きくとられている。個人的には光文社版が見やすい。

しかし、完全に予想ではありますが新潮文庫版は原文そのまま訳すことをベースにしているのだと思っています。けれど原文そのままの言葉を使った方が絶対いいかと言えばそうとも限らなくて……。

それが以下のような事例です。

マザーグースのフェル先生のようなもの」

例えば、アタスンおじ様がハイド氏と出会った感想を新潮文庫では

それとも、理由もなく嫌われる、『マザーグース』のあのフェル先生のようなものか。
ロバート・L.スティーヴンソン「ジキルとハイド」田口俊樹(訳)、新潮社(2015)、P.32

と言っている部分がありますが、光文社版ではその表現は出てきません。光文社版では

それとも、理由なき嫌われ者というやつか。
ロバート・ルイススティーヴンスン「ジーキル博士とハイド氏」村上博基(訳)、光文社(2009)、P.30

となっています。

原文を確認したところ、

or can it be the old story of Dr.Fell?

と書かれていたのですが、直訳すると…「あるいは昔話に出てくるDr.フェル(と言うべき)か?」ですかね?

「Dr.Fell」…少なくとも私にはピンときませんね。(-.-)
それどころか、マザーグースってよく聞くけど何?」っていう所からです。

この「フェル先生」というのは、マザーグース「フェル先生、僕はあなたが嫌いです」という詩のことらしい。
マザーグースっていうのは童謡のようなものみたいですね。
フェル先生 I do not like thee, Doctor Fell :マザーグース

フェル先生 僕はあなたが嫌いです
何故かって理由はわかりません
でもこれだけは確かです
フェル先生 僕はあなたが嫌いなのです
Mother Goose Nursery Rhymes (https://mother-goose.hix05.com/Mg3/mg062.fell.html)

ふむ、どうやら"アタスンおじ様がハイド氏に対して「何となく苦手なタイプだと思った」"ということのようです。

そうかー…このシーンでアタスンおじ様はハイド氏と大したことは話してないし、オチを知った後でこの時のハイド氏の台詞や素振りを読むと、何となく可愛げを感じちゃうのですけど…(・_・*)

え?可愛くない?
いやいや、私は可愛いと思います(・ω・*)

「あんたが嘘をつくとはね」

先に述べたハイド氏の台詞というのは、アタスンに話しかけられ、躊躇しながらも堂々と顔を見せたエドワード・ハイドが、アタスンの誤魔化しを瞬時に嘘だと見抜いた時の台詞です。
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それが、「あんたが嘘をつくとはね」。しかしこれは新潮文庫版の翻訳です。

光文社古典新訳文庫「きみは嘘をつける男なんだな」
創元推理文庫夏来健次氏訳)は「出まかせは困るね」

ジキル博士とハイド氏 (創元推理文庫)

ジキル博士とハイド氏 (創元推理文庫)

創元推理文庫だけ、ちょっと意訳っぽくなってますね。



新潮文庫版、光文社版の翻訳を読んだ時、ハイド氏とジキルおじさんをイコールで結ばない場合は「弁護士のくせに信用できない奴だな」という軽蔑のニュアンスに感じる。
けれど、二人をイコールで結んだ場合は「アタスンが嘘をつくような人だとは思っていなかった」という驚きと「アタスンに嘘を吐かれた」とショックを受けるニュアンスに感じられる。


読破一周目と二周目で印象が違うこの感覚は楽しいですし、エドワード・ハイドとして振舞わなくてはいけない時につい「アタスンに嘘つかれた( ゚Д゚)」っていう反応が出てしまったと思うと、なんとなく可愛い(*‘ω‘ *)

さぁ、では原文ではなんて言っているのでしょうね?
それがこちら。

"I did not think you would have lied."

直訳すると…
「あんたが嘘を吐くなんて思ってなかった」
でしょうか???

かっ、可愛い…ッ!(>_<*)

なんかこう、「名探偵コナン」で言うところのコナンくんが危険に晒された蘭姉ちゃんに「らーーーん!!!」と叫んじゃうシーンのような可愛さがあります。え?可愛くない?
そうですか…。

なんにしても、やっぱり原書の言葉運びは新潮文庫版が近そうですね。

ヘンリー・ジキルの語る事件の全容

個人的にはアタスンおじ様の口調が優しい新潮文庫版が好きなのですが、「フェル先生」の件のような事例から光文社版も捨てがたく…。
中間くらいがいいなぁ、と個人的には思っています。

新潮文庫版で全然頭に入ってこなかった最終章"ヘンリー・ジキルの語る事件の全容"は、相変わらず光文社版でも分かりにくいですが多少わかりやすくなっている部分もあります。

ヘンリー・ジキルは信頼できない語り手なのか?

しかし新潮文庫版を読み、光文社版を読んでも、ジキルおじさんは語り手として全く信用できない感じがします。

(「信頼できない語り手」についてはこちらから)
snow-moonsea.hatenablog.jp

どうして信用できないかと言うと、最終章の前半で語られるエドワード・ハイドの行動についての説明は自分の体験として書いているのに、後半に差し掛かるとだんだん他人事になっていくのです。

最終的には、前半でハイドの行動を「私」と言っていたのが、やがて「彼」になる。
現在よく知られている映画や彼をモデルにしたキャラクターだと、「ハイド氏はヘンリー・ジキルと身体を共有し、体の占有権を奪おうとしている別人」として描かれるのでその方が単純明快でわかりやすいのですが、私としては「原作はその辺りが疑わしい」と思っています。


語り手のジキルおじさんの言葉をそのまま信じるなら、「エドワード・ハイドというもう1人の自分が勝手に行動し始めた(=共通の記憶を持っているが別人である)」と読めるのですけど、エドワード・ハイドがヘイスティ・ラニヨンに言った言葉や行動、及び前述のアタスンの言葉を聞いたエドワード・ハイドの「"I did not think you would have lied."(あんたが嘘を吐くなんて思ってなかった)」という反応は、「ヘンリー・ジキルではない人物の行動である」とは思えないのです…_(:3 」∠)_


私は最終章を数回読んで「語り手がマジで信用できない」と思ってしまったので、「薬による興奮状態だったにしても、ハイドに変身している時の意識はずっとジキルのままだったんじゃないのか?薬が切れて正気に戻った時に、自分のしたことを認めたくないだけで。」と思っている部分が強いです。

変身薬をやめようとするも我慢できなくて再び飲んで状況を悪化させてしまう様は「まさに薬物依存症患者」。
薬をやめようと思っているくだりで、「ハイドに変身した時に隠れる為の家や着替えを処分しなかったあたり、無意識下で変身生活を手放したくなかったのかも」とも言っていますが、疑ってかかろうと思えば「いや、本当はやめる気がなかったのでは?(;´・ω・)」とも思えるわけで…。

疑ってかかろうと思えば全部疑わしくなってきます。

コーヒー豆(原書)は疑念を晴らしてくれるのか?

原文を見て、この最終章の印象が変わったかというと…
まず英語が不自由(おまけに現代語訳される程度の古い英語!)というのが先に立つので「いや…疑ってかかるより前に何を言っているのかさっぱりわからん」っていう感じです( ゚Д゚)
どこから手をつけていいものか…。

新潮文庫版の訳者あとがきにも、この最終章は翻訳が大変だったという事が語られていたので一筋縄ではいかないのでしょう…。


翻訳を読んだ時、個人的に受ける印象としては新潮文庫版は「必死に言い訳をしている(=自分を庇う為に誤魔化しているのではないか?)」ように見え、光文社版は「新潮文庫版より可哀想(=言っている事をそのまま信じてしまいそう)」に見え……どちらの印象が本来のニュアンスに近いのか、それともどちらも正しいのか?
翻訳でもこれだけ印象の差が出るのですから、きっとこれは意見が割れる所なんだと思います。

しかし、原文(英語)を見てもニュアンスを拾う事が出来ない私には、原書を手にした今でも謎のままです(-_-;)
徐々に読んでいくようにしたとしても、私が納得する答えが見つかるかどうかは未知数です。


誰かが淹れたブラックコーヒーを飲み比べる

原書が読めないのなら、翻訳を読み比べて考えるしかありません。新潮文庫版と光文社版を読み比べる事で多少の疑問は解決した部分がありますから、原書を見ながら翻訳を読み比べて答えを導き出すしかありません。

もう一冊入手している創元推理文庫版もサッと目を通しただけに過ぎないので、光文社版を読み終わってからじっくり比較していこうと思っています。

ちなみにサッと読んだ感じ、最終章"ヘンリー・ジキルの語る事件の全容"のジキルおじさんに対する印象は「新潮文庫、光文社版と見比べてもより傲慢で反省してないように見える」という印象だったことは書いておきます。
もちろん、しっかり見比べて読めば印象が変わる可能性は十分にあるのですけれど。


そしてこの3つを併せても理解がほぼ遠いなら、角川版や岩波版も買う計画でおります。

新訳 ジキル博士とハイド氏 (角川文庫)

新訳 ジキル博士とハイド氏 (角川文庫)

(角川版の表紙に描かれている美青年って一体誰なんでしょうね…メインキャラはアラフィフ3人で、青年は1人いるけどチビで不気味な若者っていう設定だし…気になる)
ジーキル博士とハイド氏 (岩波文庫)

ジーキル博士とハイド氏 (岩波文庫)

原書の単語を拾い、私の気が済むまで、少しずつ解読していく他ありません。

他によさそうな翻訳をどなたかご存知でしたら、是非教えてくださいね(*‘ω‘ *)

私がこだわる理由って…

まぁ、話は変わりますが、どうして私がこの作品…「ジキル博士とハイド氏」にこだわるのか(心を揺さぶられたのか)というと、私も少し不思議ではあるのですよね。
というか初読は今年の3月、しかも飛行機の中でしたので、長年愛している作品ではないのです。

フランケンシュタイン」の場合

同時期に読んで、初読後1~2か月以上まともに眠れなくなるくらい愛してしまった「フランケンシュタイン:或いは現代のプロメテウス」の方が理由を説明がしやすい。物語は幼少期から始まるし、彼が21歳で手に余る偉業を成し遂げ、死ぬまでの出来事を読むことになる。彼の(年齢的な意味で)成長を眺めているような、そんな気分。ところが、ヴィクターくんは確かに天才なんだろうけどどうも意気地がなくて頼りない。言ってしまえば、「へたれ」である。
気持ち的には卑屈でコミュ障、でも時に純粋で天才な年下の男の子の人生をハラハラしながら見守っているような…そんな気分。

だから私はヴィクター・フランケンシュタインくんが可愛くて仕方がなくて、続きが読める明日を迎えるのが待ち遠しかった。
物語のテーマや登場人物たちとの関わり、彼と"フランケンシュタインの怪物"との因縁など、見どころはたくさんあるし、愛する理由にそれなりに人に聞かせても恥ずかしくないものを用意する事も出来るのだけれど、私がこの物語を愛する核は「ヴィクター・フランケンシュタインくんが放っておけないかったから」なのです(^▽^;)

人に聞かせるために理由を用意するなら、きっと「ヴィクター・フランケンシュタインと人造人間のそれぞれの葛藤の対比が…」とか言う気がしますが、ぶっちゃけると「ヴィクターくんが可愛いんだよ!!!( ゚Д゚)」が8割です。

ジキル博士とハイド氏」の場合

じゃぁ私が「ジキル博士とハイド氏」にこだわる核は何なのでしょう?
この小説の中にはヴィクター・フランケンシュタインくんのように、どうしようもなく放っておけないという登場人物はいません。

色々理由は思い浮かぶものの、やはり「変身」がキーワードになっているからでしょうか。
snow-moonsea.hatenablog.jp

変身する、という事は自分が自分が元の姿ではなくなること。言いにしても悪いにしても、変身する事で周囲の人間からは自分を自分と認識されなくなります。
時には、自分が元の自分でいられなくなることさえある。

私はそこに生じるもどかしさやすれ違い、悲しみや絶望が大好き。心をかき乱される、といいますか。
この物語でそれの最たるものは"ヘンリー・ジキルはエドワード・ハイドの姿で死ぬ"という部分ですね。
その上、最終章"ヘンリー・ジキルの語る事件の全容"が前述の通りなんとも釈然としないために、何度も読まなくてはならなくなった事が私の心を掻き立ててくるんだと思います。

まぁ、でも簡単に言ってしまえば「ジキルおじさんが変身を繰り返したことで生じる2人の親友とのすれ違いがたまらなくそそる」ってことなんじゃないかなと思います(´・ω・)


…と書きましたが、もうひとつ考えられることとしては、ジキルおじさんに共感する部分もあるからだと思っています。
しかしそれはまた後日といたしましょう。

何にしても、心を揺さぶられた作品に対して貪欲になりたがっている事が常のようです。

さいごに:コーヒー豆を眺めることは

翻訳違いで一人称や台詞の言い回しの違いなどを見て楽しむ事は主に映画でよくやってきた事ではありますが、本ではもしかすると初めてのことかもしれません。

コーヒー豆(原書)を眺めてみると、コーヒーを淹れる人たち(翻訳者)の個性の差がよりよくわかる気がしました。

こういったことをするのは、単純に私がうっかり古い作品にハマってしまったことでグッズもなく話相手のいない、満たされない感覚を少しでも和らげるために行っているのですが、色々と勉強になっている気がしますね。
最も、形は違えどこういう状態に陥ることは慣れっこなのでマイペースにやれることをやってみようと思っていますが。

大学の卒業論文のテーマにしているわけでもないし、これは所詮娯楽なので、気の向くまま、好きなように愉しもうと思います。

おまけ:原書を手に入れたらやってみたかったこと

原書を手に入れたらやってみたかったこと……それは「哀れなヘンリー・ジキル」の回数を数えること!
snow-moonsea.hatenablog.jp

新潮文庫版で8回も出てきた「哀れなヘンリー・ジキル」、またはそれに類する台詞。マジでアタスンおじ様、親友を常に哀れみまくっているの??


計画通り回数を数えようと思ったのですが、入手した本の英語の文字が小さく、目にチカチカしてしまって作業はなかなか進んでおりません。

けれどパッと見つけた文字はこんな感じでした。

The last, I think ; for O my poor old Harry Jekyll, if ever I read Satan's signature upon a face, it is on that of your new friend.

ああ、哀れなヘンリー・ジキル。悪魔の署名が人の顔に読み取れるなら、それはきみのあの新しい友人の顔にこそある。
ロバート・L.スティーヴンソン「ジキルとハイド」田口俊樹(訳)、新潮社(2015)、P.32

………「my」って、なんだ(・_・)

「私の可哀想な年老いたハリー(※愛称)」???
親友、というよりは家族も同然の存在…みたいな表現なのかな…??

ニュアンスがわかりません。
く、悔しい………!!!(>△<;)