海に浮かぶ月のはしっこ

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【読書/神話/映画】変身する者の末路

変身譚はロマンだと、私は勝手に思っています。とはいえ、なかなか同じ趣向を持つ人と出会った試しがないのですが一種のフェティシズムだと思うと仕方ないのかもしれません(-ω-;)
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上のイラストは先日のスマホゲーで久々に心が震えたので「"絶望するジキルおじさん@ジキル博士とハイド氏(※後の祭り)"的なものをワンドロ(1時間で絵を描くチャレンジ)で!」と思って描き始めたものの、1時間じゃ終わらなかったぜ…。

変身譚についてまとめようと思ったら文学史でも書いてる気分になってきたので、今回は思うままに書こうと思います。


光文社版「オペラ座の怪人」の解説で読んだのだけれど、「ジキル博士とハイド氏」をモンスター文学と考えた場合、人狼譚の変形として捉えることができるらしい。

(忘れないうちに独立記事書かないとな~)

人狼モノも大好きですよ。
ハリー・ポッターシリーズで一番好きな登場人物はルーピン先生だし。

ハリー・ポッターとアズカバンの囚人 (3)

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ハリー・ポッターとアズカバンの囚人 特別版 [DVD]

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でも変身譚だからと言って全部が全部私のツボにはまるわけでもなくて…
例えば、オウィディウス先生の「変身物語」は全くはまらない。
この作品は別の面で思い入れのある作品ではあるけれど、変身モノとしては私は心をときめかせる事が出来ない。

オウィディウス 変身物語〈上〉 (岩波文庫)

オウィディウス 変身物語〈上〉 (岩波文庫)

オウィディウス 変身物語〈下〉 (岩波文庫)

オウィディウス 変身物語〈下〉 (岩波文庫)

まず「変身物語」について少し触れておくと、"現在よく知られるギリシャローマ神話"の元ネタに当たる作品です。でも"現在よく知られるギリシャローマ神話"が"本来のギリシャ神話或いはローマ神話"とイコールで結ぶ事はできない。
この作品を"本来のギリシャ神話或いはローマ神話"と呼ぶにはオウィディウス先生の手によって大きく脚色され過ぎているようなのです。

オウィディウス先生は紀元前1~紀元後1世紀のあたりを生きた人なので、紀元前8世紀頃を生きたホメロス先生や紀元前6世紀頃を生きたアイソポス先生より何百年も後の時代の人で、ローマ人。神話の時代を生きた人と言うには時代が新しすぎるのでその時代の流行りも大きいのかもです。

まぁなんにせよ、私はオウィディウス先生と趣味フェティシズムが合わないようです。


どうにも、私は変身した時又は異形の姿になっている時の心境や周囲の人間関係の変化に心揺さぶられるようです。さらに言えば、"変身を自由に出来ない"という制約が必要。

例えば、冒頭の「ジキル博士とハイド氏」で言えば、物語の大半を興味なく過ごして、最後の最後で「ん?」となるレベル、でした。
というのもジキルおじさんは変身を自分の都合で操作出来る上に、自分の事を擁護するから。でも最後は変身が自分の思い通りにいかなくなって自滅します。
snow-moonsea.hatenablog.jp

(現代で定着しているイメージってそうだろうと思うのですが)"知らない別人に体を乗っ取られる恐怖"を期待していた自分としては初回はガッカリ。実際は性格や振る舞いは違いますがはっきりとした別人ではないし、記憶も共有しているし、体を乗っ取ろうとする素振りもありません。
なので"一時的な悪堕ち"と解釈しています(*‘ω‘ *)でもそれが快感になってしまい、変身時に色々やらかして後悔して泣いても、悪堕ち時の解放感からか変身薬を飲むことをやめる事が出来ない辺りが罪深い(だから私は「ヤク厨のダメなおじさん」と呼んでいる)

けれど変身が自分の思い通りにならなくなった時、彼は自分の心も姿も見失って絶望に追い込まれます。そこからが私のフェティシズム本領発揮。

そして絶望した彼は自分の本来の姿で死ぬことが出来ないのです。…いや、でも善人らしく振舞いつつも理性で抑え込んでいた狂暴性を晒したハイドの姿の方が、彼の本当の姿なのかしら?
これは彼への罰なので仕方のない事ですし、それは元に戻れない絶望に苛まれた彼自身が自覚していると思う(そう思いたいな)。でも、好き勝手にふるまって自滅した親友に置いていかれたアタスンおじ様はあまりにやるせないでしょう。
だって、そこに横たわる親友の遺体はアタスンおじ様があんなに必死に守ろうとした親友の姿をしていないのですから。

ジキルおじさん(声も姿もハイドだけど)はアタスンおじ様の声を聞いた時、扉の向こうで何を思ったでしょう。変わり果てた自分の姿を親友に見られたくないし、でも本心では助けて欲しかったかなぁ?けれど自分の姿を晒したら親友に迷惑をかけるし、拒絶されるかもしれない可能性に恐怖したかなぁ?
結局は親友を置き去りにして、死によってそこから逃げ出してしまうのだけれど。

…なお、未読時に期待したミリしらな結末は「自分の体を乗っ取ろうとする別人格・ハイドにこれ以上人を殺させないために道連れにする」エンディングだったけど、そんな話ではなかった(`・ω・´)+
そもそもハイドはサイコキラーではないけど、TSUTAYAをうろついた独自研究的には「ハマー版の映画で"ジャック・ザ・リッパー"要素が加えられた事」が現代におけるハイドのイメージに"サイコキラー"がついた原因じゃないかと勝手に思っている。まぁ確かにどっちも19世紀のイギリスですけどー!

何にせよ、この物語は私の趣向的に大ヒットだったというわけです。上記の通り、思っていた話とはだいぶ違うけどエモーショナルなので結果オーライです(*^_^*)


さて、一例だけ挙げても説得力に欠けるので"変身する者の末路"としてもう一つ挙げておこうかなと思います。

ジョルジュ・ランジュラン「蠅」の映画版、1958年の「蠅男の恐怖」。
snow-moonsea.hatenablog.jp

(やだープレミアついてる~!布教できなくなるからやめて~!(>_<;))

この作品、特に原作の「蠅」の方は「ジキル博士とハイド氏」と物語の展開や構造がよく似ています。

蝿(はえ) (異色作家短篇集)

蝿(はえ) (異色作家短篇集)

今のところ、独自研究的には特にこの二つの作品に直接的な関連性はなかったのですが(例えば、「ウェルズの「透明人間」は「ジキル博士とハイド氏」の影響を受けて書かれた」と多くの解説文で読むことが出来た)、まぁ有名作品なので少しは影響受けたりとかがあった可能性もなくもない…気がする。

「蠅男の恐怖」は恐らくリメイク版の「ザ・フライ」の方が有名だと思いますが、「ジーンズをリュックサックにリメイクしてみました☆」というくらいの差がある気が……。



「蠅」および「蠅男の恐怖」は、頭と腕をプレス機で潰されるという不可解な死を遂げた科学者と、何かを知っているようだがただ「私が夫を殺した」と言う科学者の妻という状況で、物語の進行役である科学者の兄が事件の真相を暴くお話。

真相はあからさま過ぎる邦題とクライマックスシーンだけで構成されている当時の予告PV(意味がわからない)で分かってしまう通り、科学者は蠅と融合して蠅男になっていたという「SFだから推理できない系ミステリー」。

「蠅男の恐怖」の蠅男と化した科学者アンドレ・ドランブルは決して望んで蠅男化したわけではありません。
物質転送装置の実験の失敗によって彼は頭と片腕がハエになってしまったのです。

アンドレさんは姿だけではなく言葉も話せなくなり、妻に拒絶される事を恐れて異形の姿を晒すことが出来ず、やがて人間としての理性が失われていき、その感覚に恐怖と絶望を感じ追い込まれていきます。
人間に戻る事が絶望的だと悟ったアンドレさんは死を選びますが、その方法とは異形と化した頭と腕をプレス機で圧し潰すというものでした(ハエだから圧死という皮肉もあるのかも…)
そうする事で、彼は人間に戻れたんだと思うのです。……だって、遺体は変死体でありはするけれどアンドレさんの姿なのだもの。

その上で研究室を破壊し、研究ノートを燃やしてしまえば、誰も蠅男なんて想像することなく、自分は人間として死ぬ事が出来る。

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最期は人間の姿で
(5年前の絵なのか…時間の経過が恐ろしい)

仲睦まじいアンドレさんとエレーヌさんの夫婦がアンドレさんが異形化することで絶望の淵に落とされて、でも二人が愛を確かめようとする、けれどうまくいかない、というやり取り、そしてその結末は涙しかないです。

最期の言葉は LOVE YOU 。
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そして続編「蠅男の逆襲」に続きますが、こちらは泣く、というよりは「父の悲劇を知ったアンドレの息子フィリップくんがハエを見るだけで顔面蒼白になっちゃうのに蠅男にされちゃう映画」なのでS心を逆撫でされます。

(前作はカラーなのになんで白黒なんだろう?と思いますが当時は白黒も根強かったのかしら。誰か詳しい人いませんかね?)
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誰が父を殺したのか 僕が僕を殺すのか

なお、フィリップくんがハエを嫌う理由は前作で父アンドレが人間に戻る唯一の手段だった"アンドレの片割れのハエ"を逃がしてしまったのがフィリップくんだったからというのもあるのかもしれないと思っています。


好きです(*'ω'*)キラキラ



……と、つらつらと並べてみましたが。

ジキルおじさんの死とアンドレさんの死。
どちらも"変身する者の末路"として"元の姿に戻れない事に絶望して死を選ぶ"ではあると思うのですが、結果はだいぶ違うと思います。
ジキルおじさんはヘンリー・ジキルとして死んでいません。でもアンドレさんはアンドレ・ドランブルとして死んでいます。

遺された人にとっても、変身した者の尊厳としても、この差はとても大きいと思う。
でもジキルおじさんがエドワード・ハイドとして死んだのは彼に与えられた罰だと思うので仕方がありません。物語は、遺された親友アタスンがこの愚かな親友の正体を公表したのかしなかったのかを明かされないまま終わるのですが、それもまた構成として尊いです。公表すればヘンリー・ジキルの名誉は穢れるし、公表しなければヘンリー・ジキルは評判の善良な紳士として永遠に行方不明のまま。
何て哀しく美しいのだろう、と私は思ってしまいます。

ちなみに、構成の似ている「蠅」は映画版に反映されていない要素として、事件の真相を書いた「ヘンリー・ジキルの語る事件の全容」(ジキルの遺書)にあたる"科学者の妻アンの手紙"が登場します。

「蠅」には手紙を読み終わった後の科学者の兄アーサー(アタスンのポジション)の行動が書かれています。
私はアタスンおじ様は手紙を読み終わった後、この兄アーサーと同じ行動をしたのではないかと勝手に思っていますが…それはスティーヴンソン氏に確認しないといけない事柄ですよね(・ω・*)
まあ、生きていたとして絶対答えてはくれないだろうけど。

このように、私は変身する者たちとその周囲の人々の絶望や希望、その状況に置かれるからこそ引き立つ愛情や友情の心向きに大いにエモーションを感じるのです。


さて、蛇足ですが……。
人狼はファンタジー、変身薬も蠅男もSF。ゲーム・バイオハザードの人を異形に変える各種ウイルスもSFです。つまり基本的に現実世界では再現不可能と言う事。

ファンタジーやSF以外の形式で異形化のエモーションを感じるとなると、今までに感じた中で1番記憶に新しいのは「ムカデ人間」(1作目)なので、あまりこのフェティシズムは良い趣味じゃないかもしれません(^_^;)

ムカデ人間 [DVD]

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被害者たちが人間の姿を失い、鏡を見せられ自分の異形と化した姿をまざまざと見せられる絶望的なシーンや、「蝿男の恐怖」と同じ手段(プレス機で潰される、とかじゃなくて概念的なものです)で人間に戻ったとも取れる哀しく美しいシーンがあるわけですが…

ジキル博士とハイド氏」や「蝿男の恐怖」に感じるようなもの哀しい美しさよりおぞましさの方が勝りやすいと思うので、安易に観るのはオススメしませんよ!(スカトロジー要素もありますし…)

しかし、これもマッドサイエンティストものだなぁ。やはり近代~現代を舞台に異形化を取り扱うとマッドサイエンティストと縁が切れないのでしょうねぇ(^_^;)

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