海に浮かぶ月のはしっこ

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【読書】「ハイド氏の奇妙な犯罪」でパスティーシュを初体験する。

購入したのは結構前の話ですが研修先への移動時間や昼休みなどを利用してようやく読み終わったので感想が書けます(`・ω・´)+

なんと『ジキル博士とハイド氏』と『四つの署名』のクロスオーバーパスティーシュ。翻訳でタイトルが挙げられているのを見て検索したら手に入ってしまったのです。

帯の文字列は「ハイド氏の語る事件の真相!「ジキル博士とハイド氏」の物語がホームズ譚と交錯!シャーロキアンも必読の二重パスティッシュ。」…えっなんか物凄く欲張り過ぎじゃない?

初めてのパスティーシュの感想。
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まぁ一応言っておきますが、謎の男エドワード・ハイドの正体などの致命的なネタバレを前提で書き留めますのでそのつもりでお願いします。
今回「そもそもパスティーシュって原作知らない人を読者対象にしてないんだなー」って思いました。だから隠しようがない。エドワード・ハイドの正体をネタバレした??言うだけ無駄!笑

作品情報

「ハイド氏の奇妙な犯罪」(LE CRIME ETRANGE DE MR HYDE
著者:ジャン=ピエール・ノーグレット
出版国:フランス
出版年:1998年

翻訳:三好郁郎  東京創元社(2003年)

ハイド氏の奇妙な犯罪 (創元推理文庫)

ハイド氏の奇妙な犯罪 (創元推理文庫)

備考:『ジキル博士とハイド氏』と『四つの署名』のクロスオーバーパスティーシュ。巻末にスティーヴンソン研究者である著者の評論文「テクストの生成、ある神話の青春」を収録。

読んだ時期:2019/10

この書籍についての情報

解説部分を読むと作者は『ジキル博士とハイド氏』の著者ロバート・ルイス・スティーヴンソンの研究者であり、今作が小説の処女作らしいです。
でも今作の内容を理解するには原作と巻末収録の「テクストの生成、ある神話の青春」を併せて読んだ方が絶対に良いです。

パスティーシュ元について

ジキル博士とハイド氏

ジキルとハイド (新潮文庫)

ジキルとハイド (新潮文庫)

あえて私の好きな訳で置いておく(*'ω'*)

『四つの署名』

四つの署名 (新潮文庫)

四つの署名 (新潮文庫)

言わずと知れたシャーロック・ホームズシリーズの一作です。
ホームズの翻訳を比較したことがないので、もし良かったら誰かおすすめの翻訳を教えてくれ。。。

パスティーシュってそもそも何だ?

パスティーシュという言葉を初めて聞いたのは大分昔の事だったように思えます。私に『フランケンシュタイン』を勧めた、リュラ奏者で演出家で漫画家で小説家な友人とカフェでお喋りをしていた時に聞いたフレーズです。

シャーロキアン(ホームズファン)の間でもシャーロック・ホームズパスティーシュを認めるか認めないかで度々論争になる」

…という会話で、「パスティーシュって何?」と聞いた覚えがあります。その時の私の理解では「原作者ではない、別の作家が続編や外伝書くこと」。
思春期にハマっていたライトノベルもコミカライズされる際に外伝が描かれたりしているのを度々見ていましたし、数十年前の映画の続編を名乗る全く別の脚本家の映画が新作として発表されたりすることもあるから「あんな感じかなぁ」と思っていました。
まぁ、今も大きくイメージは外れていないと思っていますが、当時は「権利者が認めているのであれば認めてもいいのでは?」なんて言ったような気がします。
最も、映画だとしても原作厨になりがちな私としては映画会社が認めていようがオリジナル版の映画の結末を覆すような内容の新作映画を公開されるの「なにそれ凄く嫌い」なんですけど…苦笑

でもそれは所詮個人の感想。
私がどんなに『蠅男の恐怖』を愛していて、続編の『蠅男の逆襲』がチープ感が増した気がしたけど愛しさだけは失わなかったのに、その数年後にスタッフも一新されて作られた三作目『蠅男の呪い』がどんなに「お前らは蠅男シリーズの精神の一体何を受け継いだつもりになっているんだ!!!」と私がブチギレて旧作蠅男完結編として認めていなくても、公式が認めているものだから三作目である事は認めている……そういう気持ち。

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だからパスティーシュもそういう立ち位置の物だろう、という風に私は考えていたのですが、私はシャーロキアンを名乗るほどホームズを読み込んでいない。そもそも翻訳されたパスティーシュが日本に出回る機会もそうそう多くないと思いますし、パスティーシュと定義されている小説を手に取る機会なんてありませんでした。

パスティーシュを手に取る機会は突然現れた

多分、ですけどシャーロックホームズシリーズほどは多くないにしても、『ジキル博士とハイド氏』や『フランケンシュタイン』は「派生作品」の多さから、そういった(第三者が作った外伝という意味での)パスティーシュも多く存在するものと想像できます。きっと日本産のものも探せば見つかるんじゃないかなぁ。

でも私はあんまり積極的にそういうものを読みたいなとは思わないのです。基本的に(萌えに)飢えているのは確かですが、原作と設定が違うとイライラすることも多く……所謂「原作厨」と呼ばれて嫌われるタイプの面倒くさいファンです(;^ω^)
だからそういう自分のストレスを招くかもしれない作品を自分から読みに行くのも気が進まないものですから気にも留めていなかったのですよね。


ところが、東京創元社版『ジキル博士とハイド氏』の翻訳の巻末にある訳者解説で『ハイド氏の奇妙な犯罪』が紹介されていたのです。

ジキル博士とハイド氏 (創元推理文庫)

ジキル博士とハイド氏 (創元推理文庫)

でもただでさえ130年前の名作系文学って新作映画化とかされて爆発的なブームにでもならない限り一気に売れることは少ないと思います。更に、それのパスティーシュであれば手に取る人は更に少なくなる。

すなわち「この手の本は絶版になりやすいのでは?解説で紹介されるくらいだからしっかりしたものなのだろうし、少しでも読むかもしれない可能性があるなら買えるうちに買っておくのが得策か…」と思ってググってみると、案の定!絶版!!

しかし駄目元でamazonで検索してみたら、無事に中古で手に入れる事ができました。本当は色々な意味(作者さんや翻訳者さんの印税面でも個人的にやっぱり綺麗な方がいい的な面でも)で新品が欲しかったけど、まぁ絶版じゃ仕方ないですね。

初めてのパスティーシュのお味はいかが?

早速手に入れた本を読み始めた本を読み始めてみたのですが…ううん。

なんだか文体に違和感を感じました。

何が、というと物語は冒頭から「原作を読んでいることを前提として書かれている」のです。なんていうか、二巻とか外伝を読んでいる気分。でも外伝でも状況説明や回想などが入りそうですが、そういったものをあまり必要としていないような語り口だったので何だか不思議な感覚。

極めつけは、これ。

「ガント街のアタスンです。すでにお聞きおよびかと思いますが……」(そうとも、そうとも)「折よくお会いできたので……」(偽善者め!)
「わたしもいれていただけないかと思いまして」
「博士にはお会いになれませんよ。留守ですから」(さあ、どうする)「どうしてわたしがわかったんですか」(困ってる、困ってる!)
「ちょっとお願いがあるんですが」(おお、巧くかわしたな)
「なんなりと。いったいなんでしょう」(こりゃ驚いた、言いたまえ、言いたまえ、アタスン)
ジャン=ピエール・ノーグレット「ハイド氏の奇妙な犯罪」三好郁郎(訳)、東京創元社(2003)、P.20

なんだこりゃ???( ゚Д゚)

このシーンのオリジナルは原作に登場する、私のお気に入りのシーンの一つです。ハイドとアタスンがジキル邸の裏口で初めて対面するシーン。

…にしても(困ってる、困ってる!)って…(笑)
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可愛い(*‘ω‘ *)(いや、なんか、つい。)

原作ではこのシーンは以下のようになっています。

「(前略)ゴーント・ストリートに住んでいるアタスンという者だが、おそらく私の名前はきみも聞いていることだろう。これはうまい具合に会えた。実は私も中に入れてもらえないかと思うんだが」
「ジキル博士には会えないよ。出かけてるんでね」とハイドは鍵を差し込みながら言った。が、そのあとなおも顔をそむけたまますぐに尋ねた。「しかし、どうして私のことがわかったんだ?」
「それより――」とアタスンは言った。「ひとつ頼みがある」
「かまわないが」と相手は言った。「どういうことだ?」
ロバート・L.スティーヴンソン「ジキルとハイド」田口俊樹(訳)、新潮社(2015)、P.29~30

どうやらアタスンの代わりにハイドの目線で物語を焼き直ししたという程の作品……要するにジャンルとしては「翻案」らしいです。映画とかでよく見るやつ。

()はどうやらその台詞が交わされている時のハイドのリアルタイムの心情みたいなんですが、……この表現の仕方、物凄く漫画みたいじゃない??
小説でここまで心情が()で書き連ねられている様はあまり見た事がありません。
強いて言うなら、ライトノベルで見たかもしれないけど。


でもこの形式の語り方はまだ先でも出てきます。例えば、

「どうやらきみに対してぶしつけだったらしい」(ものごとはすべて相対的でね)「だけど、わたしはあの青年のことを……」(青年だよ、アタスン。活発で、軽やかで、きらきらしていて、抜け目がない。そう、大変に抜け目がなくて、かしこくて、実に聡明な青年なのさ)「心の底から心配しているんだ。だからアタスン、約束してくれないか。わたしが姿を消すようなことがもしあるとしたら」(そう、もしあるとしたら)
ジャン=ピエール・ノーグレット「ハイド氏の奇妙な犯罪」三好郁郎(訳)、東京創元社(2003)、P.35

えっちょっ、ハイドの若さ自慢可愛いな!!?(* ゚д゚)
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あっ、いや、つい…。


いや、そうじゃなくて。

これはアタスンにハイドとの関係を問いだたされたジキルが弁解するシーン。まぁここで真相がバレたら物語はここで終わってしまいますから、言うわけないけど(°▽°)

このシーンのオリジナルは下記の通りになっています。

「(前略)きっと、さぞかしきみに失礼な態度を取ったことだろう。それでも、私はあの若い男に心の底から大きな関心を抱いている。だからアタスン、これだけは約束してほしい。もし私に万が一のことがあったら(以下略)」
ロバート・L.スティーヴンソン「ジキルとハイド」田口俊樹(訳)、新潮社(2015)、P.40~41

私が思っているよりも、パスティーシュというジャンルってゆるいものなのかもしれない。そもそもパスティーシュってなんだ、というと意味は「模倣作品」という言葉で表現されるようです。
うっそだろ…ということは、要するにパスティーシュを広義に言えば「派生作品」と呼ばれるものはすべてそれに含まれてもおかしくないってことだ…!!

そう、パスティーシュというのは私が思っていたよりも同人誌だったのです。
二次創作です。そういえばそもそもこの作品、クロスオーバーでしたよね。

ここでようやく「シャーロキアン(ホームズファン)の間でもシャーロック・ホームズパスティーシュを認めるか認めないかで度々論争になる」の意味が分かったのでした。
これは戦争になるわ……( ゚Д゚)

……私?私は(公式として)認める気がないですね()
やっぱりどんなに原作をリスペクトしたとしても、パスティーシュは二次創作であり続編や外伝ではないと思う。
派生作品としては認めます(°▽°)

読んだ感想

パスティーシュ初体験の衝撃はこのあたりにして、私の読んだ感想をつらつら述べようと思います。物語の展開にはあまり触れるつもりはないです。

読み終わった時、正直言って最後のどんでん返しに絶句しましたし、意味が分からなかったです。何でこんなことに?それは流石に言いがかりでは??いったい何が悪かったというんだ??…という。もう少し違うエンディングを期待していたのですが、エンディングの驚きと一切の希望が見いだせない感覚が何か嫌…というスッキリしないものでした。
それはオリジナルキャラクターとして登場する「ハイドの協力者」がもたらした展開ですが、この結末の意味は巻末の論文と訳者の解説を読んでようやく理解できたような気がします。

私は「要するにアタスンに対する痛烈な批判、と皮肉、みたいなもの」と受け止めました。この物語全体が、無自覚にジキル及びハイドを追い詰めたアタスンへの罰…みたいな。だとしたらあまりにも悲しすぎる。
ただ、今作でアタスンの心情は語られないし、真実は一切わかりません。だからきちんと名前で呼ばれることのない「ハイドの協力者」の正体が訳者解説で指摘されている通り、巻末の論文にも登場するあの人であるならば、彼が「ハイドの協力者」である理由もなんとなくわかるし、凄く皮肉に感じます。
あぁ、しんどい( ;∀;)

そして、作者さんはどうも原作のハイドの肩を持つような書き方や真相を用意しているように感じるのですよね。これはあくまでも「ハイドの語る物語」なので、原作最終章の「ジキル博士の語る事件の真相」と同様に「信頼できない語り手」である事はほぼ間違いないのですが。事実、ハイドはすべてを語っていないと示唆されるシーンがありますし(*'ω'*)
そうは言っても、ハイドは終始「こんな姿だから疑われる、それが我慢ならない」というような態度を持っていて、彼の行動はあのカルー氏殺害事件以外で特別悪い事をしていないように見えるのは、小説的なトリックなのか、作者さんが単にハイドをかばいたかったのか、どっちなのかしら。
勿論、原作を読んでいても、あの事件以外ではハイドは特別大きな事件を起こしたりしていないのだけれど、原作でハイドが起こした事になっている事件も今作では「見た目の怪しさから疑われた」という事になっているので、作者さんのこだわりのようにも感じますね。

そういった態度で物語が進行していく上に、この作品内でのアタスンは徹底してハイド疑って追い回す事をやめないので、アタスンが悪者にされてしまうのは仕方のない事なのかもしれない……。
あぁ、しんどい…( ;∀;) ←(※私は原作のアタスンおじ様が大好き)

巻末の論文を読む限り、作者さんは巻末の評論を読む限りアタスンおじ様に対して否定的、批判的な目線で見ているようです。彼の行動をあまり好意的に見ていない。
でもそれは他の翻訳本の解説でも皮肉めいた言葉でチラッと書かれていたので、文学研究界隈ではよく言われている事なのかもしれません。論文に登場する原作者の手記の記述についての解釈を信頼するのなら、アタスンは「親友を心配する心優しい紳士」ではなく社会が孕む悪を排除しようとする法の番人、つまり「ジキル及びハイドにとっての最大の脅威」になってしまう。

えー、でもそんなの嫌だ( ;∀;)
ジキルおじさんの行動がどんなに無責任だとしても、それを正直に話したなら叱りつつも受け止めてくれるだろう……と思えるようなアタスンおじ様の献身性や温かさがあるから、私はジキルおじさんの無責任な行動も許せるのに。
私は研究者ではなくただ娯楽作品として読む立場なのでそのあたりのことを突っ込んで知りたいとはあまり思いませんが。あまりに深淵に入りすぎるときっと物語に希望を見出したい気持ちとか、楽しみとかがなくなってしまうでしょうし。

だから、面白かったかと聞かれると帯で大々的に煽り文句に使われているハイドとホームズとの対決シーンは「えっこんだけ?」というボリュームの少なさは感じるものの、展開が面白かったのでアリだと思います。


今作でのハイドは態度こそ悪いものの、前述の通りなんかとばっちりばかり受けている印象が強いのでどことなく可哀想な感じが強いですね。別に何か悪いことをしたわけでもないのに、どうしてあんな目に…(-_-)
哀れなエドワード・ハイド。
それから、語り口や台詞回しがいちいち可愛いのがなんか腹が立ちます()

読んで良かったとは思いますが、残念ながらお気に入りの一作にはならないかもしれません。パスティーシュなので深く考えること自体に意味はないのかもしれないのだけれど。


それに、そもそもハイドの立ち位置の解釈は私と作者さんとは異なっているので、そういう意味でも違和感があるのかもしれません。(私の解釈は商業展開されている派生作品では今の所MazMさんのゲームが一番近いかな~と思いますが、それもちょっと違う気はします)

そんな感じで、私にとっては少しもやもや感が抜けない作品になってしまいましたが、原作読了後に読む一つの派生作品として楽しむならエンディングの皮肉が利いて面白いと思います(*‘ω‘ *)