先日、12年来の友人とランチを共にした時の事。
彼女と小説の構成上に現れる"信用できない語り手"の話をした。
今日はそんなお話。
待ち合わせをした時、彼女は仕事の参考にと一冊の本を読んでいた。
批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)
- 作者: 廣野由美子
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2005/03/01
- メディア: 新書
- 購入: 12人 クリック: 124回
- この商品を含むブログ (96件) を見る
彼女曰く、小説の構造を分析・解説した内容の本だけど、その解説に取り上げられているのが「フランケンシュタイン」だというのだ。
というか、そもそも私に「フランケンシュタイン~或いは現代のプロメテウス」を勧めたのは彼女だ。
そして彼女は私にこう言った。
「月ちゃん、ヴィクターに騙されてるから!!(>△<*)ノ」
…はて?(*・ω・*)
ヴィクターとは、豆腐メンタル天才大学生ヴィクター・フランケンシュタインくんのことかな??
snow-moonsea.hatenablog.jp
- 作者: メアリーシェリー,Mary Shelley,芹澤恵
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2014/12/22
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (5件) を見る
それからしばらく、「ヴィクターみたいな駄目男にひっかかっちゃ駄目だよ~!(>△<*)」と「そんなことないよ!ヴィクターくん可愛いもん!(>_<*)」という応酬が続きました。
彼女曰く、ヴィクターくんは"信頼できない語り手"に分類される主人公なのだそうだ。
"信頼できない語り手"。
ようするに読者を事実の誤認・ミスリードに導く語り手の事である。
pdmagazine.jp
「シャーロック・ホームズ」で喩えるなら、ホームズの姿と事件自体を描写しているワトソンが何らかの勘違いをしていたり、意図的に何かを読者に対して誤魔化している状態のこと…なのでしょうか。
「ひぐらしのなく頃に」や「うみねこのなく頃に」等はこの"叙述トリック"が多用されていたような覚えがあります。
(TVアニメ化10周年記念)(ひぐらしのなく頃に)全話いっき見ブルーレイ [Blu-ray]
- 出版社/メーカー: Frontier Works Inc.(PLC)(D)
- 発売日: 2016/06/03
- メディア: Blu-ray
- この商品を含むブログ (2件) を見る
(うみねこのなく頃に)全話いっき見ブルーレイ [Blu-ray]
- 出版社/メーカー: NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン
- 発売日: 2016/12/07
- メディア: Blu-ray
- この商品を含むブログ (1件) を見る
…でも、まぁ彼女が言う事も理解できないわけではない。
ヴィクター・フランケンシュタインは確かに重要な事をきちんと喋らないのだ。
この小説はウォルトン、ヴィクター、人造人間という3人の語り部が交代で自分の置かれた状況について説明する形式で書かれている。そしてどの登場人物も、誰かに語りかける形式で書かれている。
ウォルトンは故郷の姉宛ての手紙に、ヴィクター(現在)はウォルトンに、人造人間はヴィクター(過去)に。
ウォルトンに関しては手紙に対してちょっと興奮気味に書いているので大げさな表現もあると思う。
ヴィクターは……正直言って、読了一回目の時、彼の人造人間を作った動機がよくわからなかった。
彼の置かれた状況や、彼の言葉の端々を拾っていくと「少年時代に夢中になった錬金術」「進学直前に母を失ったトラウマ」「科学による人間の不死の実現への可能性」等のパーツを継ぎ合わせて何となく理解する事が出来るのですが、彼が「何故なら○○だと思ったから」等とキッパリ言いきるような文章は見当たらないのです。
ついでに言うと、彼が人造人間を作ったシーンってものすごくシンプルで。
わたしは生命を吹き込むための道具を取り揃え、足元に横たわる物体に生命の火花を注入しようとしていました。時刻は午前一時をまわろうとしています。雨が陰気に窓を打ち、蝋燭は今にも燃え尽きようとしていたそのとき、半ば消えかけたその不確かな明かりのなか、足元に横たわった物体の、くすんで黄身がかった瞼が、まずは片方だけ開くのが見えたのです。
メアリー・シェリー「フランケンシュタイン」 芹澤恵(訳)、新潮社(2014)、P109
何があったんだよ。
「フランケンシュタイン」絡みのパロディ等でよく見かけるため、研究室に雷が落ちて電気が走って「生きてる!生きてるぞ!」と叫ぶ…という、1931年版映画の有名なシーンをつい思い浮かべてしまうけれど…
- 出版社/メーカー: NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン
- 発売日: 2016/08/24
- メディア: Blu-ray
- この商品を含むブログ (2件) を見る
もう一度読んでみよう。
わたしは生命を吹き込むための道具を取り揃え、足元に横たわる物体に生命の火花を注入しようとしていました。時刻は午前一時をまわろうとしています。雨が陰気に窓を打ち、蝋燭は今にも燃え尽きようとしていたそのとき、半ば消えかけたその不確かな明かりのなか、足元に横たわった物体の、くすんで黄身がかった瞼が、まずは片方だけ開くのが見えたのです。
メアリー・シェリー「フランケンシュタイン」 芹澤恵(訳)、新潮社(2014)、P109
何があったんだよ。(二回目)
そして、彼はビビって逃げ出したのであった…。
このように、彼は重要な部分を省いたり誤魔化したりする傾向が見られると言うのは確かに納得するところです。
でも私にはとにもかくにも彼が怯えている所ばかり目に入るし、知識・技術力に反して精神年齢が低く、行き当たりばったりな印象を受けるのですが。
せいぜい20代前半の大学生ですし、多少の精神年齢の低さは彼が世間知らずのお坊ちゃんとして育った事を考えると「しょーがないかなー!可愛いな~(^ω^*)」って思っちゃうのですけど。
しかし彼女曰く「自分を擁護するようなことばかり話すし!甘やかしちゃダメ(>△<*)ノ」…との事なんだけど…。つまり、自分が被害者であるという事を強調することで何かを隠している主人公、ということなんだろうか?
そうかなぁ…?σ(゚・゚*)
もし彼の言動がミスリードなのだとしたら、彼は何を隠しているのでしょう。物語の本質にかかわる部分なんだろうか。だとしたら、疑ってかかる必要はあるけれど、私はヴィクターくんの事を悲劇の主人公として見ているのでなにか転機がないことにはそのフィルターを外す事は難しいでしょう…。
でも私が思うに、"ヤク厨の駄目なアラフィフ"の方がよほど「自分の事を擁護する"信頼できない語り手"」なんだけどなぁ…。
snow-moonsea.hatenablog.jp
(まぁ別の作品なので"どっちも"という事もあるかもしれないけれど)
ジキルおじさんは最終章”ヘンリー・ジキルの語る事件の全容”という遺書のパートで彼の語りを読む事が出来ますが、ヴィクターくんよりよほど研究の動機について分かりづらい。
そのあたりの"動機"や"エドワード・ハイドに自由意志はあるのか、あくまでジキルおじさんの延長線なのか"という考察は前に少しやったけど。
snow-moonsea.hatenablog.jp
しかし自分は被害者(※自業自得なんだけど)であり、上手く責任逃れをしようと話題を挿げ替えようとするのが見え見えなので「あーこいつダメ男だ…(¬ω¬)」という感想を抱いてしまった。
最も、彼は本来の語り手であるアタスンおじ様のパートで嘘を吐くけれどかなり嘘が苦手な様子がうかがえるため、こんなもんなのかもしれない。アタスンおじ様のパートでは外面の良さが強調されているため、遺書を読んだ際、ジキルおじさんに愛情を持って読めば"可哀想"と思えるのかもしれない。
でもラニヨンの証言によるエドワード・ハイドの言動や、彼がラニヨンにした事を踏まえると、ジキルおじさんがラニヨンへの個人的な怨みを発散したようにしか見えないので、遺書でハイドの起こした暴力事件について「(私がやったとは認めていない)」と言おうが「いやお前だよ!!( ゚Д゚)」と、ついツッコミを入れたくなってしまう。
嘘や誤魔化しが駄々もれているだけに"信用できない語り手"と言っても警戒し易い部分はあると思うのだけど。
しかしそれが、130年後の今、原作をきちんと読んだことがないまま、なんとなーくあらすじを知っているような気になっていた私は、このダメなおじさんが"本当に品行方正、清廉潔白な若者"で描かれていても、私は何の疑問も抱かなかったのである。
派生キャラのブルース・バナーも別に薬物依存ではないし。
130年の間に何があったんだよ。
映画界がエドワード・ハイドにジャック・ザ・リッパーを盛ったせいなのか。そうなのか。
確かにエドワード・ハイドが極端に悪人になれば相対的にジキルおじさんは善人になりそうだけど…………いやでも、原作のジキルおじさんってアレ、でしょ?(;´・ω・)
いや、キャラが立ってるのでそういう意味では好きな登場人物ではあるのだけど、人間的にはダメ男…。
少なくとも、彼をモデルにしたSNSゲーのキャラクターに愛着はあっても、彼自身に対しての愛着は薄かったので"信頼できない語り手"と即座に断言してしまった感はあります。
だとするならば、私はヴィクター・フランケンシュタインには愛着を持った目線で見ているから"信頼できない語り手"とは断言しづらかった…という事?o(゚^ ゚)
いやいや、まさかね。そうは思いたくないものだ(;´・ω・)
なお、個人的には"信頼できない語り手"にというテーマなら、グレゴール・ザムザも数えたい所である。
snow-moonsea.hatenablog.jp
フランツ・カフカ氏の「変身」の主人公。
家の借金を返し、将来の妹の学費を稼ぐために身を粉にして働く、ブラック企業にお勤めのよく訓練された社畜であり、ある朝目が覚めたら毒虫に変身していた青年。
でも個人的主観では本当に毒虫に変身しているのではなくて「統合失調症かな」と思っている。
つまり、精神を病んでしまって幻覚を見ている状態。この小説は三人称ではあるけれどグレゴール兄さんの目線で物語が進むので、グレゴール兄さんの心情しか基本的に語られない。語り手は彼であるけれど、彼は小説開始一行目から「巨大な毒虫に変わっていることに気づいた」というトンデモ発想をしているので、もし"信頼できない語り手"だとしたら初っ端から物語にフィルターをかけてきているということである。
小説の世界そのものに「巨大な毒虫になっていた僕」というフィルターをかけている。やばい。
真相はわからないけれど彼が物語を最後までミスリードさせている…という説を推したいところ。
(ここまで強調しておきながら個人的な感想なのでそれを論破する論文とかがあったら申し訳ないのだけど)
また、友人は「フランケンシュタイン~或いは現代のプロメテウス」について”小説の形態だからこそ力を持つ物語”とも言っていました。
私はその意味についてその時は深く追求しませんでしたが、ヴィクター・フランケンシュタインの語る怪物の恐ろしさも、徐々に追い詰められる恐怖も、彼の語り口の中でこそ生きるので、映像化してしまうと違うものになってしまうという事であろう、と思います(勿論それは後から私が考えた事なので実際は彼女自身に聞いてみなくては。)。
偶然にも、それらの事はここに挙げた2作品にも当てはまるような気がします。
特に「変身」は。
"信頼できない語り手"かどうかの境界が曖昧だった時、映像化したら"信頼できない語り手"かどうかという推測を立てるのは更に難しくなるでしょうし。
フランツ・カフカ氏が挿絵に"虫の姿を描かないように言った"というエピソードもありますが、上記の通りグレゴール兄さんが本当に虫の姿に変わったのかという点は不透明に感じます。でも「本当に虫の姿に変わったのか」「ただの幻覚だったのか」については小説だからこそ不透明のままなのです。映像にしちゃったら、視覚と聴覚で感じちゃいますからね。
きっと、映像だったら、文章上では「全く信用できない( ゚Д゚)」と思ったジキルおじさんも信用してしまったような気がしなくもない。現に、かなり原作に忠実だと絶賛したノベルゲームでさえ「これはちょっと可哀想かも…」と思ってしまいましたし。
snow-moonsea.hatenablog.jp
でも原作読んだら「うん、やっぱこのおじさん駄目だ(*‘ω‘ *)」と思いました。
それはやっぱり”地の文で感じる違和感”がそうさせるのでしょう。視覚化されると疑いを持ちにくい。
それはある種、その登場人物と心を一つにしていると考えられる事なのかもしれないけれど。
形態が変わると物語の本当の姿を伝える事が出来なくなる。
それは大いにその通りだと思う。
けれど話を戻すと、果たしてヴィクター・フランケンシュタインは"信頼できない語り手"なのか?
聞き手をだます意図を持って被害者面している、と?
私は今のところそうは思いたくないのだけれどなぁ!
友人は「ヴィクターはダメ男だよー!騙されちゃ駄目だよー!悪い男に騙されないか心配だよー!(;´・ω・)」と言っていたけれど。
まぁ彼はとある小説の主人公に過ぎないので、万が一彼が本当に読者を騙す意図で同情戦略を踏んでいたとしても、あえてそれに乗っかって愛でても特に問題ないでしょう(*‘ω‘ *)
というわけで、豆腐メンタル天才大学生ヴィクター・フランケンシュタインくんは可愛い!