海に浮かぶ月のはしっこ

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【考察/読書/映画】原作を一杯のコーヒーに例えたら映画化は時にティラミスになりますか?

ある昼下がりに友人としていた話。
「原作を一杯のコーヒーに例えたら、映画化は何になる?」

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メディアミックスされると「原形とどめてないけど原作の要素は何となく感じる」…とか、そういうのあるじゃない?あぁいう感覚と、砂糖でも入れてしまったら、それはもうブラックコーヒーではないんだなぁ。という感覚。


なんでコーヒーかというと、「カフェ・ド・クリエ」でコーヒー飲んでたからなんですけどね。

www.pokkacreate.co.jp



以前、下記の記事で、こんな話を書きました。
snow-moonsea.hatenablog.jp

砂糖を入れてから「元のまま(=温かいまま)飲んでもおいしい(*‘ω‘ *)」と言ったら、友人に「砂糖入れてるから元のままじゃないよ!(;^^)」とツッコミを入れられましたが、まぁこれから氷とミルクも入れちゃいますので…!

というわけで投入…!

こうして、大分見た目も変わってしまいましたが…

「もうこれ日本語訳どころか抄訳になってる?」

…まぁその話はまた別の機会に。

簡単に言うと、「翻訳という行為を行っただけで、原作とは違うものに変化している」という話。


私が愛してやまないたくさんの作品がありますが、このブログでよく登場する作品の中から具体例に挙げるなら、「ジキル博士とハイド氏」と「フランケンシュタイン:或いは現代のプロメテウス」でしょうか。

この二つは3種の翻訳に目を通していて、新しい事が分かるたびに下記記事にちまちま書き加えています。
snow-moonsea.hatenablog.jp
snow-moonsea.hatenablog.jp
一応ディアミックスを観た後にも書き加えているのですよ(*‘ω‘ *)

そう、今この二つの作品は3種の翻訳が手元にある。
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こう並べてみるとなかなかに圧巻です。今の所これ以上は増えてないけどまた増やすんだろうなぁ…(;´・ω・)

映画でもそうなのですが、私は翻訳違いを集めたがる。
何故なら、言い回しのニュアンスが違うだけで印象が大分違うから。一人称の差なんかは凄くわかりやすい。
けれど一人称の差なんて概念は日本語に翻訳したから生じるもので、原文である英語は「僕」も「私」も「儂」も全部「I(アイ)」である。

私は、そういう一人称の違いはその人の個性やキャラクターの印象を直感で理解できる便利なものだと思っているのだけれど、英語にはない。つまりは原作にない要素である。

逆に原作にはあるニュアンスで、日本語に翻訳できないものもたくさんある。
例えば、「ジキル博士とハイド氏」の"ジキル博士があまりにハイド氏を庇うので、アタスンは2人の関係を勘違いをした"というストーリー進行の部分。
一番新しい翻訳である新潮文庫版ではその二人の関係を訳者あとがきで"男色"のニュアンスを補足している(つまり恋人同士なんじゃないかと疑っている)。

ジキルとハイド (新潮文庫)

ジキルとハイド (新潮文庫)

でも、他の二つの翻訳はその該当部分について別の解釈をしている。ふわっと濁す感じもしくは「2人で悪い事してるんじゃないかと疑っている」というニュアンスになっている。
(※その比較については長くなるから別の考察の時にやりましょう)

ジキル博士とハイド氏 (創元推理文庫)

ジキル博士とハイド氏 (創元推理文庫)

ジーキル博士とハイド氏 (光文社古典新訳文庫)

ジーキル博士とハイド氏 (光文社古典新訳文庫)

ただ、この部分の英語のニュアンスに触れているのは新潮文庫版の訳者あとがきだけなので、新潮文庫版の指摘が一番作者の意図に近いのかもしれない。原文を見ていないので何とも言えないけれど、単語の言い回しがそういうほのめかしを含んでいる…?


その他、気になっているのは新潮文庫版でアタスンおじ様が本文中で「哀れなヘンリー・ジキル」と何度も繰り返すのが面白過ぎて数を数えたこともありましたが…
snow-moonsea.hatenablog.jp
他の翻訳だと「可哀想な」とか「気の毒」だとかいろいろな「哀れ」の類語を混ぜてくるので、同じ数にはなりません。

果たして、元々の原文から同じ単語を繰り返しているのだろうか?
それとも微妙にニュアンスの違う単語を混ぜて使っているのか?

この二点は原作を"原文で"読んでみない事には確認しようがありません。


フランケンシュタイン:或いは現代のプロメテウス」で大きく翻訳違いの違和感を持ったのは、創元推理文庫版のジュスティーヌの喋り方が妙に訛っているとか、そういう部分です。

何故だ。元々訛っているのか??(;・ω・)

それもやっぱり原文を読んでみないとわからない。


翻訳違いだけでこれだけの大きな差、変化があるというのなら映画化はどれだけの大きな変化なのだろう。
「原文から日本語に翻訳された時点で一杯のコーヒーがアイスコーヒーになっているなら、映画化は最終的にはティラミスか、いや、もっと違うものになる」

最終的にはチョコレートパフェみたいな見た目になって、「確かに見た目茶色いけどさぁ!!コーヒー入ってないじゃん!!」と思ったらパフェの中のスポンジにしみこませてある…みたいな。
元の原型はとどめていない。でも風味は確かに感じる。


友人が例に挙げたのはこれ。
オペラ座の怪人」ベースの映画ファントムオブパラダイス

友人曰く、例えるなら「チョコチップキャラメルエクストラソースキャラメルマキアートホイップクリーム乗せ」……コーヒー(原作)の味するのかな??(; ・ω・)

ミュージカルだし時代も違うし舞台も展開も違う。その時点で器も味も違うけどその上に「ファウスト」と「ノートルダムドパリ」を盛る!
飲み物としての見た目もかなり違うが、飲んでみると「あっ…確かにコーヒーの味する」という感じらしい。

でもこれはこれでとってもおいしい!!(=面白い)
…とのこと。


オペラ座の怪人」といえば私も原作(翻訳)をきちんと読んで数か月しか経っておりません。
なお、私が読んだのは光文社古典新訳文庫版です。(ラウルが好き!)

オペラ座の怪人 (光文社古典新訳文庫)

オペラ座の怪人 (光文社古典新訳文庫)

私のファーストコンタクト「オペラ座の怪人」は2004年のミュージカル映画版なのですが、

それを踏まえてこのミュージカル映画を例えるなら「カフェモカフロート・フラペチーノ(ガムシロ投入)」
ミュージカルアレンジの上に恋愛要素強めにしてとことん甘く!甘く!

…カロリーが心配になってきた(;´・ω・)


フランケンシュタイン」1931年版の喩えは私の体験に強く依存したのですが、

友人の喩えは「ノンカフェインコーヒーをコーヒーだと言われて飲まされつづけたので「まだ本当のコーヒーを知らなかった」ということに気づいていなかった(最近本当のコーヒーを知った)」でした(;^ω^)
うん…あの映画はあの映画で教訓的ではあるのですが、「コーヒー(原作)………??」という感想ですね…。

でも永続的にノンカフェインコーヒーを飲み続けていたら、ノンカフェインコーヒーじゃないと飲めなくなってしまうのかもしれない。
本当のコーヒー(原作)の味が自分に合うとも限らないのですから。


あ、「ヴィクター・フランケンシュタイン」(2015)はね…。

snow-moonsea.hatenablog.jp


「ノンカフェインコーヒー使用のティラミス」でした(*‘ω‘ *)
美味しいけどコーヒー(原作)の見た目がほとんどないなこれ!…という感じ(;^_^)
「あ、でも確かに材料にコーヒーは使われている…いやしかしこのコーヒーはコーヒー(原作)というよりかはノンカフェインコーヒー(1931年版映画「フランケンシュタイン」)だな!?」という感想。

原作抜きなら割と面白かったんですけど……原作とはストーリー全然違うのにやっぱり冒頭のOPでイゴールの「これは人造人間を作った科学者ヴィクター・フランケンシュタインの真実の物語…」みたいなナレーション入るのやめて~!
(そもそも原作しか読んでないと「イゴールって誰だよ!?」ってなる案件でもある)


…そういうわけで、ノンカフェインコーヒーはノンカフェインコーヒーで大きな派生メニューの流れを作っているということでもあります。
自称・原作原理主義だと、どうしてもコーヒーの味の濃さを気にしてしまうのだけれど、コーヒーも映画や本も嗜好品。
好みのアレンジを楽しめばそれでいいのだと思います。


いやだがしかし。
ついつい私は前述の通り「翻訳の時点で既にアイスコーヒーにガムシロップとミルクを入れてしまっているんだー!」と絶望しているので、もう最終的には"コーヒーをブラックで飲むしかない(=原作を原文で読もうぜ!)"と思っておりますよ。

…私に、英語が読めればの話なんですけどね(;^_^)



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