海に浮かぶ月のはしっこ

映画や文学作品、神話関連その他の事をおぼえがきしますよ

【観劇②】極上文學「ジキルとハイド」を原作ファンが2回目のチケットを買ったので観る前に抑えておきたいポイントをまとめます

観劇をしてから数日経過しました。
ほわほわした感じはあれから3日くらい続いていましたが、今は少し落ち着いてきました。

…いや、まだソワソワしてる。
仕事に行くのやめて2回目行きたいとか、あと2回くらい行きたいとか、平日になってもずっと色々な事を考えていたからあんまり落ち着いてませんでした。

なので、晴れて2回目のチケットを買いました!(*'ω'*)
同じ演目を同じ期間にチケット買って観るなんて初めての経験です…。

しかし、それだけではもったいない気がして。
1回目は「知らない女性キャラとか出たら嫌だなぁ」とか「ジキルが良い人だったらどうしよう…(?)」とか余計な心配に気持ちを割いていた気がするから。
2回目を観る前に、1回目で気になった事、注目して観ておきたいなと思うところを原作の話を交えながらまとめます。

ネタバレはバンバンするのでもしも読まれる方がいるのでしたらご注意を。

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※実質、この記事の続きのお話です
snow-moonsea.hatenablog.jp


★引用について
引用はすべて下記から行う事とさせていただきます。

Project Gutenberg 「The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde by Robert Louis Stevenson
青空文庫ジーキル博士とハイド氏の怪事件
底本:ロバート・ルイス・スティーブンソン/著「ジーキル博士とハイド氏」 佐々木 直次郎/訳 新潮社(1950)

上記のどちらもパブリックドメインや著者が許諾した作品の公開をしているブラウザ形式の電子図書館です。
Project Gutenbergには原文が、青空文庫では日本語訳版が掲載されています。

また、私が「第●節」という場合は、私が勝手に話の始まりからエンディングまでの区切りのサブタイトルに数字を振っているだけにすぎません。
でもその方がどのあたりかわかりやすいでしょう?…と勝手に思っています。

役者さんによる違いについて

Twitterやマシュマロで観劇勢の方とお話しする機会に恵まれましたが、やはり役者さんの違いって大きいらしいですね。
映画勢であったこともあるので「確かにそうだろうな」とは思うものの、同じ脚本で役者さんが違うパターンというのが前回の記事でも書いた通り「ナショナル・シアター・ライヴ :フランケンシュタイン」でしか体感したことないのでイマイチピンと来ていなくて。

「そうなんだろうなぁ」とは思うものの、実際にはどれくらい差があるのかしら。
そこも楽しみにしているポイントです。

でも最終的には、私の事だから「どちらがイメージに近いか」という事を求めてしまうのでしょう。
理想のアタスンおじ様(アターソン)はどっちかな、とか。

初回の時に感じたことを交えて少しまとめてみます。

私の持っている各キャラのイメージ

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・ガブリエル・ジョン・アタスン(アターソン)
原作のアタスンおじ様は「不愛想な人情家(と書いて「お人よし」と読む)」。
いかつい顔立ちで、背が高くて痩せていて不愛想で、クール。(…と、原作に書かれている)
ジキルとは小学校くらいの年齢からの幼馴染のはずなので50歳のはずです。

とにもかくにもお人よし。親友に対してとても献身的で、宗教書を読む習慣があるほどの敬虔なクリスチャン。
この作品の良心だと思っている。

私が初回で観た時の役者さんは塩田康平さん。
爽やかな印象で、イメージよりも快活な印象を受けました。
でも親友への献身的な振る舞い、情熱はアタスンおじ様だなぁ…と、違和感を感じなかったのです。
年齢も見た目の印象も全然違うのに、です。優しくて誠実で、素敵なアターソンでした(*'ω'*)

エドワード・ハイド(ハイド)
原作のハイドちゃんは…私は「癇癪持ちの低身長萌え袖ショタジジィ」と表現します(酷い)
チビで、萌え袖で、ショタジジィで、怒ると地団駄を踏み、イライラすると歯ぎしりしたり唸り声を上げたり、我慢する時は爪を噛む。それから、地獄の亡者のような絶望的な声を上げて泣く(でも全部原作に書いてあるんだもん…!)
マスコットキャラか。

身長が低い、というのは原文で何度も言われている事で。
目撃証言なんかも「物凄くチビで、物凄く人相が悪い」です。

萌え袖、は第9節「DR. LANYON'S NARRATIVE」(ラニョン博士の手記)での描写からです。
身体の大きいジキルから突然チビのハイドに変身したので服が大きすぎてズルズルなんです。

そして、ハイドちゃんが若い青年であることは明言されています。
また、アタスンおじ様が原文でたまに「Master Hyde」と呼んでいたのが気になって。
19世紀イギリスだとMasterは少年~若者に対しての「~くん」って意味だとか読んだような(※不確かです)。
…だから、「ハイドくん」ですかね。未成年くらいに見えるのかな。
(ちなみに、原作ではハスキーボイスであることが明言されています)

そのうえ、正体はジキルだから実年齢は50歳。
ショタ(=少年)…ではないけれどショタジジィ(=見た目が若いの老年キャラ)ではあると思う。

…という次第で、私は「ショタジジちゃん」なんて呼んだりするのです。
イメージ的には、ジキおじの性格の悪い部分なので理性がなく、傲慢で、紳士と呼ぶにはがさつだけれど礼儀正しくないわけではない……というような複雑なイメージを持っています。


私が初回で観た時の役者さんは桑野晃輔さん。
歩き方が若干チンピラっぽくて、なるほど、「見る者を不快にする」ってそういう解釈なのかと思ったり。
でもハイドちゃんのどことなく子供っぽい所が垣間見えるのが楽しくて、微笑ましく見ていました。

・ヘンリー・ジキル(ジキル)
原作のジキルに対するイメージは…「外面の良いクz」……もとい、「外面の良い腹黒紳士」。
お金持ちで、医学博士、民法学博士、法学博士、王立科学協会会員等の称号を持ち、背が高くて体格がいい(高身長で体格がいいのは当時のイケメンの条件らしいです)ハンサムで整った顔立ちをしている50歳英国紳士。
何このスペックの高さ!

ちなみに、新潮文庫版では「smooth face」を「外面がいい」と訳されていて、これは普通「髭をそり落としている」と訳されるところのようですがそういう意味もあるらしくて、ダブルミーニングでいいなって思ってます。
拙宅のジキルに髭があるのは最初に読んだのが新潮文庫版だったからです…。

でも……その輝かしい外面の裏はあれです。
自分の評判を異常に気にするあまり、別人の姿を得て享楽にふけるおじさんです。
しかも自分の作った薬に依存しており、我慢できずに何度も繰り返しているヤク厨。

第10節「HENRY JEKYLL'S FULL STATEMENT OF THE CASE」(この事件に関するヘンリー・ジーキルの委しい陳述書)を読むうちに段々この主人公の人柄にがっかりしてくる。
しかし、なんだかもうすっかり慣れてしまって、逆に性格の悪さを見ると安心さえ覚える。


私が初回で観た時の役者さんは梅津瑞樹さん。
最初は繊細な印象で、「マジで性格が良かったらどうしよう」と思ったけれどいらない心配でしたね。
むしろ原作ではジキルの姿で本性を丸出しにするシーンはないので、最ッ高でしたね……
性格は、まぁ…悪いんですが…でもそこがいい、というか、初回を観た時に、私は自覚したくなかったけれどジキルおじさんのこういう性格が悪いところ結構好きなんだなと思いました(苦笑)

・後継者
原作には登場しない読者の視点を担うオリジナルキャラクター。
読者の視点、というよりかは脚本家さんの解釈を代弁するキャラクターなのかな?

事件の被害者、ダンヴァース卿の子ということになってますが原作ではダンヴァース卿がアタスンおじ様をたずねようとした理由ははっきりは書かれていない。

そして、ツッコミどころ満載の、第10節「HENRY JEKYLL'S FULL STATEMENT OF THE CASE」(この事件に関するヘンリー・ジーキルの委しい陳述書)が「信用できない語り手」であることを鋭く突く存在。
だってあの章、ジキルおじさんの言葉で書かれているせいで矛盾だらけなんだもん。

いいぞ、もっとやれ。

でも彼は冒頭に欲望に忠実な自分を押し隠している描写があったので最後のあれは、破滅という意味なのでしょうかね…。

私が初回で観た時の役者さんは東拓海さん。
ややコミカルでおちゃめさのある若い青年、という印象を受けました。

でも後継者くんのポジション、いいですね。
物語二周目をして真相を知った状態でジキルとハイドの所業の数々にツッコミ入れていってくれないかな…。
この物語は二周目からが面白いので。

二回目を観るなら注意して観たいポイント

さて、一回目はストーリーを追うので精いっぱいだったので、二回目は注意深く細かいところを観たいと思っています。
なので、印象に残った台詞やシーンを書き出してまとめてみようと思います。

興味深い台詞について

私はカインではないがカインの友人ではある

ジキル博士とハイド氏』にはキリスト教的な台詞が結構たくさん出てきていて、それの一つがこれ。
アターソンの口癖の台詞ですが、原文ではこうです。

"I incline to Cain's heresy," he used to say quaintly: "I let my brother go to the devil in his own way."

直訳すると、「「私はカインの異端をしがちだ。」と彼は奇妙な言い方をした。「私は兄弟を彼のやり方で悪魔のところに行かせる。」」

この台詞、翻訳本を見比べると訳がバラバラで意味が分からないんです。
詳しくは下記の記事に書いてあるので興味があれば。
snow-moonsea.hatenablog.jp

こんな難解な文なのだから、避けても良かったのに…と思って印象に残りました。
カインとは、旧約聖書に登場するアダムとイヴの子で、弟を殺害しておきながら弟の行方を尋ねられ「知らない」と答えた人類最初の殺人犯とされています。

一応、私が出した答えは、「カインの異端(Cain's heresy)」とは「犯罪行為を見ないふりをすること」。
「兄弟(my brother)」とは「(同じ宗教を信じる)仲間」。
「彼のやり方(his own way)」とは「その同胞が犯す犯罪」。
友人の助言によると、悔い改めることを勧めるのが良きクリスチャンらしいので、敬虔なクリスチャンであるのにもかかわらず「私は仲間(依頼人・友達)の犯罪を咎めて悔い改めることをさせないから、地獄に落ちさせてしまう」、っていう事なんでしょうね。難しいです。

アターソンの説明でこの口癖が出てくるのは、彼が情に厚く、彼の弁護士としての依頼人に対する対応が平等だったことの説明です。だから演劇での訳「私はカインではないがカインの友人ではある」も意味合い的には近くていいな、って思うんです。

カインを「犯罪者」の象徴としてとらえると、「私は犯罪者ではないが、罪人たちの友人ではある」になって彼の弁護士としての姿勢が印象に残りますよね。とても良いです。


同じような言葉で、「悪魔の署名」がどんな言葉で訳されたのか、忘れてしまったんですよね。

なぜなら、ああ気の毒なハリー・ジーキル、もしわたしがこれまで人間の顔に悪魔の相を見たことがあるとすれば、それは君の新しい友人のあの顔だ!

(アタスンおじ様は感情が高ぶるとジキルおじさんを「ハリー」という愛称で呼びます)

The last, I think; for, O my poor old Harry Jekyll, if ever I read Satan's signature upon a face, it is on that of your new friend.

この「Satan's signature(悪魔の署名)」。青空文庫版では悪魔の相と書かれています。
悪魔学に詳しい友人によれば「最後の審判の時に地獄に落ちるように悪魔が先にサインを書いてる」という事らしいんですが、つまり意訳しちゃうと「見るからに犯罪者」ってことですね。

でもサタンとか悪魔とかって言葉を使って舞台では訳してた気がするんです、なんだったんだっけなぁ。

生きているもう片方の友人

演劇の中で、「生きているもう片方の友人」という台詞が出てきました。
それは原作にもそのままの台詞があります。

その日からのち、アッタスンが彼の生き残っている友人との交際を、前と同じように熱望したかどうかは、疑わしい。彼はその友人のことを好意をもって考えた。しかし、彼の思いは不安で恐ろしいものだった。いかにも彼は訪ねには行った。が面会を断わられて却ってほっとしたかも知れない。

でも、これ「もう片方の友人」はジキルで間違いないけれど、その「すでに亡くなっている片方の友人」が別の人になっているのが「おっと…?」と思ったポイントです。

演劇では多分ダンヴァース・カルー卿の事を指しているのかな?
原作ではヘイスティ・ラニヨン博士です。

チラッと台詞の中には出てきたけれど、ラニヨン博士は登場してないですよね。
ラニヨンはジキルとアターソンの共通の親友であり、三人は小学生くらいの年齢からの幼馴染です。(school and college からと書かれています)
それが、ある事件によって突然ラニヨンが死去してしまったのですが……それは後の項目で書きます。

しかし台詞を変えずに対象を変えているのが面白くもうまいなぁってポイントでした。
アターソンがダンヴァース卿と友達、と取られる方が後継者くんのアターソンとの関係性も深くなりますから、あえて変えなかったんでしょうね。うまいなぁ。

大人になればわかるよ

演劇のストーリーの折々に挟まれる、ジキル又はハイドもしくはその両方の心情のようなシーンの一つ。
明確ではないものの、原作に由来があるものも多いのですが(主に第10節「HENRY JEKYLL'S FULL STATEMENT OF THE CASE」(この事件に関するヘンリー・ジーキルの委しい陳述書)に書かれている)、その中の一つです。

ただ、この台詞、シーンを明確に書き表わした文はありません。
けれどピンとくるものはあって、それはジキルの思い出と、ハイドの行動。
ジキルは「父の手に引かれて歩いていた子供の頃」と書いているけれど、最後に追い詰められたハイドの取った行動は

私の書物のページに私自身の手跡で涜神の文句をなぐり書きしたり、手紙を焼きすてたり、私の父の肖像画を破ったりした

何でわざわざ父の肖像画を?

私はこのことから、ジキルは父親の事が嫌いだったんじゃないかと思っています。
ハイドが本性を体現する存在であるなら、ジキルは父親との思い出を美しいものであるかのように書いているくせに、本心では父への思いは書いてある言葉の印象と真逆だった可能性もあって。

「大人になればわかるよ」と言われて抑圧されて育った子供時代を垣間見た気がして、このシーンが心に残っています。
それ以外の回想のようなあのシーンも、どこから着想を得たものなのか考えても面白いかもしれません。

原作を踏まえて確かめたいこと

可哀想なヘンリー・ジキル(…の回数)

さあ問題です。
劇中、アターソンは何回「可哀想なヘンリー・ジキル」もしくはそれに準ずる台詞を言ったでしょう?

私もわかりません。
数える余裕はなかった………

でも原作は「7回」です。数えたから知ってます。
snow-moonsea.hatenablog.jp

原作でこれだけあるんだから1回ってことはない…よね?

カルー卿殺害の動機

カルー卿殺害の動機について、原作だと動機についてはほとんど何も書かれていません。

なんかよくわからないけど突然腹が立って殴り殺したことになってます。

私は、その薬を飲んだ時でさえ、これまでよりも一そう放縦な一そう猛烈な、悪をなそうとしていることを意識した。私の不幸な被害者のていねいな言葉を聞いていた時にあの激しいいらだたしさを私の心の中に起こさせたのは、きっと、それであったに違いない。神さまの前でも、私は少なくとも次のことはちゃんと言い切れる。道徳的に健全な人間ならあんなちょっとしたことに腹を立ててああいう罪を犯すはずがないと。

流石は信用できない語り手・ジキルおじさん。何を言ってるのか全然わからん。

ジキルとハイドは記憶を相互的に共有していると明言されているため、なぜ腹が立ったのか知らないはずはないと思うのですが。
じゃあ何故言わないのか?
都合が悪いから。

だから、この殺害の動機については考察しなければなりません。

事件の時のカルー卿の描写は以下の通り。

その顔はいかにも悪意のない、古風で親切な気質を表わしているように思われたが、しかしまた、正しい理由のある自己満足からくる何となく高ぶったところもあった。

なので、私は何となく、「カルー卿の紳士としてそしてその人生に満足しているような振る舞い」というのは、「紳士として成功しているにも拘らず人生に満足を得られなかったジキル」にとっては嫉妬の対象で、更には「別人としてこそこそと享楽に耽っている自分への当てつけ」のようなものに思えて癇に障ったのではないかなと思いました。
ジキルがハイドになると、理性が飛ぶのでその感情が行動に出ちゃったんじゃないかなぁ…なんて。
しかしそれはジキルにとっては屈辱でしょうから、あえて遺書に書かなかった。動機はハイドにはないと思う。

そんな解釈をしているし、原作に答えは書かれていないから、舞台で一つの解釈を見せてもらえたことはかなり興味深かったです。
やはりジキルの方に動機がある解釈なのですね。

ただ、「善人が勝利者になったことはない」だったか……台詞をよく覚えていないのでもう一度確認したいところです。
どちらにしても、この怒りはジキルおじさんのものだと思います。


ちなみに、フランスのパスティーシュ『ハイド氏の奇妙な犯罪』では、ハイドが自分の顔を見られた時のダンヴァース卿の「醜いものを見た」というような不快げな反応に腹が立った、と書かれており、こちらは動機がハイドにあります。
しかし、あくまでパスティーシュ(二次創作)ですからね…原作に書かれていない以上、実際はどちらなのかわかりません。

ハイドの振る舞い、ジキルの本性

役者さんによってかなり違う、とも聞いたのですが、この二つのキャラクターの振る舞いには着目しておかねばならないと思います。
ただ、どう着目するか、という話になりますが、私は恐らく「二人が二人のように見えて一人に見える事」を重視するような気がします。

例えば、単純な所で「一人称を同一化するか」。
元々は英語で「I(アイ)」しかないから、一人称なんてあってないようなものですが。
舞台ではジキルは「僕」、ハイドは「俺」でしたかね。

とはいえ、ジキルはアタスンおじ様曰く「若い頃は荒れていた」そうだし、本人も「私がやったような不品行は、かえって世間に言いふらした人も多いだろう。」と言っているくらいです。
それがどの程度のものだったかはわからないけれど、ハイドちゃんがジキルおじさんの本性ならば若い頃の荒れていたジキルおじさんの面影を持っていてもおかしくないので言葉遣いや振る舞いが大きく違っても違和感はないのかなと思います。

その辺は人それぞれの好みなんでしょうね。


演出上だと思いますが、第10節に相当するシーンでジキルとハイドが二つあったものが一つに統合されるように見える感覚に陥るシーンがありました。あのあたりをよく観ておきたいな、って思います。

元々二つあったわけじゃないけど、読者の目から見ると二つあったように見えて一つだったわけですし、ジキルおじさんも自分の汚い部分を自分だとは認めないと思うので(実際に原作には「もう私とは呼べない」とか「私がやったとは認めていない」とか、そんな台詞が出てくるので……)二つに見せている、一つ、という感覚なのか。

元々、ハイドに個体としての感覚があったかどうか(別の人格としての自我があったかどうか)は争点になりそうですし、今回この演劇を観る限りではどっちともいえるような気がするのです。
もしも観客にどっちとも取れる、という意図があって演出していたのだとしたら本当にすごい。

でもやっぱり後継者くんの考察とはいえ、ジキルの本性を見てしまうと、一人のような気がするなぁ…って(笑)
ジキルの本性が露わになるシーンは本当にヤバい。原作では見られない部分だから。
けれど私も無意識のうちにそれが観たかったような気がするんですよ。
だってジキルおじさんってクz(自主規制)

あと、「君は僕の傑作だ!」と言うシーンもあったように記憶しています。原作ではジキルおじさんはハイドちゃんを「息子のようなもの」と考えているそうなのでそこに差がありますが、「傑作」っていう「生み出した物」という視点、凄くマッドサイエンティストっぽくて好きです。
ジキルおじさんはマッドサイエンティストの祖とされるキャラクターの1人なので。マッドの意味が違う気がするけど笑

でもこの台詞、「君」と呼びかけているからジキルはハイドの事を自分だとは認めていないのかな?それともあえて「作品」として評価している姿勢のため「君は僕の傑作」なのかな?

脚本家さんがジキルとハイドの関係性をどう考えているのか気になります…滅茶苦茶面白い。

演劇オリジナル演出について

後継者の役割と立ち位置

オリジナルキャラクターである後継者。
読者の代弁者である彼は、少なくとも、私の気持ちを代弁してくれることがあります。

それの一つが「お人好しなんだな」。アターソンへの評価です。
アタスンおじ様は前述の「カインの友人」のくだりでも書いた通りの「良い人」。
そんなツッコミを…私もしたかった………。

そして、エンディングは考察の代弁者でもある。
考察である以上、全ての人が同じ意見とは限らない。
けれどもっとよく聞いていたら私の解釈を代弁してくれている台詞が具体的にもっと見つかりそう。
彼の事は注視して観ないとなぁって思ってます。

そして、彼の存在と設定が私にとって少し救いにもなっているのです。

原作ではアタスンおじ様がジキルおじさんの遺書(=第10節)を読み終わった後の行動は何も書かれていない。
ジキルおじさんが遺産を全てアタスンへ譲ると遺言に書いたとしても、その後アタスンがどうしたのかは書かれていないのです。

後継者の設定は、ダンヴァース・カルー卿の息子ということですが…。
彼が引き継ぐのがアターソンの引き継いだジキルの財産なのだとしたら、アターソンはジキルの財産を相続してやがて天寿を全うしたということ。
私が一番怖いのは、アターソンがヘイスティ・ラニヨン博士のような運命をたどること。
つまり、ジキルの秘密を知った影響で心を病んで病気になって死んでしまうこと。
そういう文学研究書読んだ覚えがあるし。

あの後のアターソンの人生については演劇でも語られていないしわからない。
けれど、成人したダンヴァース・カルー卿の子供に財産を引き継ぐほどには生きたのは確か。
きっと情に厚いアターソンの事ですから、後継者くんの後見人として大層彼を気にかけていたのでしょう。

それにしても、ジキルが殺した男の子供にジキルの財産が引き継がれるって、凄い皮肉ですよね。
とっても面白い。

ジキルとアターソンのハグ

このシーン、原作には出てきませんが、最ッ高でした。
ただ残念なことに、どこのシーンだったか忘れてしまったのです!

見た瞬間頭が真っ白になってしまって……何も覚えていません(苦笑)

興奮しすぎじゃないですか?(笑)
この物語はジキルとアターソンのブロマンスだと思っているので距離の近さを物理で感じるシーンがあるとテンション上がりますね。

何処のシーンだったか次は覚えて帰ります…。

アターソンの涙

原作ではアタスンおじ様がジキルおじさんの遺書(=第10節)を読み終わった後の行動は何も書かれてはいません。
遺書を持って、ジキルの邸宅を後にした後は遺書のこの言葉で締めくくられています。

ハイドは処刑台上で死ぬだろうか? それとも最後の瞬間になって逃れるだけの勇気があるだろうか? それは神さまだけがご存じである。私はどちらでもかまわない。これが私の臨終の時なのだ。そしてこれから先におこることは私以外の者に関することなのだ。だから、ここで私がペンをおいてこの告白を封緘しようとするとき、私はあの不幸なヘンリー・ジーキルの生涯を終らせるのである。

そのあとは何も書かれていません。

アタスンおじ様は「手紙を読んだら戻ってくる」と言ってジキルの邸宅を後にしているのですが、彼読んだ後に何をしたのか不明です。

だからそれは考察の余地ありですし、どれが正解でも不正解でもない。だって書いてないから。
例えば、滅茶苦茶原作に忠実なアプリゲームの「MazM:ジキル&ハイド」ではアターソンおじ様がどうしたのか描かれているのですが…それはオリジナル展開です。
snow-moonsea.hatenablog.jp
(「原作読むのだるいけどストーリーは知りたい!」という人にはとりあえずこのアプリをおすすめしてます(笑)
今回の演劇・極上文學も同じ文脈でおすすめできると思うなぁ…)


私は「もしも願いが叶うなら、ハイドちゃんが息を吹き返して欲しい」と思っています。
アタスンおじ様はこの凶暴で不気味な若い青年になり果てた親友を放っておけず、彼を匿って二人で暮らす。
…なんて。

でもきっとそれは都合の良い妄想が過ぎるから、せめてハイドがジキルであることを示すすべての証拠を焼き去って。
世間的には「ジキル博士は善人だった、惜しい人を亡くした」ということにして。
そのうえで一人寂しく、ハイド(ジキル)の死を悲しんで丁重に弔ってほしい。
それだけでも十分です。

そんな妄想をしている私です。

だからハイドの遺体を目の前にしたアターソンがハイドの正体を知らないのに何故か涙を流す、だなんて!
本当に、それは最高が過ぎます。
無意識には目の前に横たわっているのが自分の無二の親友であると理解していて。

そうそれだけで、もう一度観たいと思ったものです。

原作で気に入っているから気にしたいところ

ハイドの事なんて気にしちゃいないのさ

第5節「INCIDENT OF THE LETTER」(手紙の出来事)のエピソード。

「ハイドがどうなろうと僕は別に気にかけちゃいないのだ。僕はあの男とはすっかり縁を切ったのだから。僕はこの忌わしい事件のために自分の評判が幾らか危険に曝されていることを考えていたのだ。」アッタスンは暫くの間考え込んだ。彼は友人の利己的なのに驚いたが、しかしまたそれで安心もした。

個人的にはこの台詞、省略されるかと思っていました。
ジキルの性格が実はあんまりよくない事が垣間見え、それをアターソンが目の当たりにするシーンなので私はかなり好きなのですが、舞台版のジキルの序盤の優男っぷりに「省略されそうだな」と思ったのです。

でも……すっかり騙されました。
ありがとうございます。最高でした(`・ω・´)+
そしてこの台詞を残してくれてありがとうございます!!!

本当、「優男」の印象を裏切ってくれてありがとう!!
第10節相当部分以降の変貌っぷりに思わずニヤニヤしちゃったもの!!(笑)

同じような理由で、第3節「DR. JEKYLL WAS QUITE AT EASE」(ジーキル博士は全く安らかであった)も大好きです。
特に二周目にこのシーンを読むと、ジキルの白々しい台詞に思わず笑ってしまいます。
また、アタスンおじ様とジキルおじさんの友情や関係性がよくわかるシーンでもあるので大好きですね。

プレゼントの杖

大好きなシーンの一つなので、ワクワクしながら見ていました。

アッタスン氏はハイドの名を聞いただけでもう心がひるんでいた。がステッキが前に置かれると、もう疑うことができなかった。折れていたんではいるけれども、それは何年も前に彼自身がヘンリー・ジーキルに贈ったステッキであることがわかったのだ。

アターソンから見れば、
・自分がジキルにプレゼントした杖をジキルが他人に貸しててショック
・ハイドがその杖を凶器に使っててショック
・無惨に壊れててショック

…なんですけど、ハイドの姿になってまでこの杖を持ち歩いているジキルは何か可愛いなと。

だって元々の自分の私物をハイドが使えば正体バレの危険性が増える、にも拘らず持ち歩いていたのはこの杖がお気に入りだったから…というようにも見えるので。
ただ、それで人を殴って死なせてしまうのは良くない。アターソンのショックもただならないでしょう。

この杖はダンヴァース卿と対峙した時にハイドがイライラしながら弄んでいる描写が原作にも舞台にもありますね。

ジキル、ハイド、アターソンにとって重要なキーアイテムのひとつ。
じっくり見ておきたいなと思います(*'ω'*)

ハイドの泣き顔

第8節「THE LAST NIGHT」(最後の夜)ではドアの向こうで誰かが泣いていた、と執事のプールが言うのですが、舞台ではそんな台詞はなかったような気がします。

だから見られないと思っていた………が!
もうそのあとの第10節相当シーンやそのあとのエンディングではボロボロに泣いていたので感無量です。
………可愛い。

ハイドちゃんは悪役のくせに結構泣きます。
理性が欠如している分、精神的な子供っぽさが強調されるのかもしれません。
あんなに態度の大きかった青年(50歳)がギャン泣き。ギャップ萌え…?

残念な事に、歯軋りしたり爪を噛む仕草はなかったけれどギャン泣きは見られる…!
個人的に大好きなのでしっかり観たいと思います…!

後生だからやめてくれ!

第8節「THE LAST NIGHT」(最後の夜)。
最後の、アターソンがドアの外で「ジキル!」と呼びかけたら、「アターソン!後生だからやめてくれ!」と返ってくるシーン。

ジーキル、」とアッタスンが大声で呼んだ、「僕は君に会いたいのだ。」彼はちょっと言葉を切った。が何の返事もなかった。「僕は君にはっきり警告するが、我々は疑いを起こしたのだ。それでわたしは君に会わなければならんし、また会うつもりだ、」と彼は言葉を続けた。「もし正当な手段で会えなければ、非常手段ででも、――もし君の同意がなければ、暴力を用いてでもだ」
「アッタスン、」とさっきの声が言った、「後生だから、ゆるしてくれ!」
「ああ、あれはジーキルの声じゃない、――ハイドの声だ!」とアッタスンが叫んだ。「ドアを打ち破れ、プール。」

訳のバリエーションはたくさんありますが、この「後生だから」は一番好きな訳し方。
余裕のなさが入り混じって「お願いだから」「頼むから」とは必死さが違う。
どことなく、「私を哀れだと思うのなら」という意味合いが入っているような気がして凄く好きです。

そして何よりこのシーンの尊い事は、アタスンおじ様はこの叫び声を聞いてハイドだと断言してしまう事。
恐らくはハイドの声でジキルとしてアターソンの名前を呼んだであろうに、自分とは認識されないのです。
悲しい。最高。

そういえば、舞台版ではアターソンはハイドに名乗りましたっけ?
もし名乗っていないなら知らないはずのアターソンの名前を知っていた、という事になります。
この小さな矛盾にアターソンが気づけないとしたら、悲しさが倍増して更に良いですなぁ…と思ってしまいますね。
(原作では舞台版で削除されている第2節「SEARCH FOR MR. HYDE」(ハイド氏の捜索)で名乗っています。残念。)

残念ながら原作にはあるが演劇にはなくなったシーンの話

ラニヨン博士の不在

原作のキーパーソンの一人、ヘイスティ・ラニヨン博士は今回の舞台に登場しません。
よって、かなり好きなシーンが削除されている……悲しい!

舞台の中では、「ラニョン博士が僕の研究を科学的異端だと言っていた(※うろ覚え…)」などという台詞で登場していますが、登場はしませんでしたよね。
彼は前述の通り、原作でジキルとアターソンの親友です。
でも、10年ほど前にジキルとラニョンは研究の事で仲違いして絶交状態になりました。

それで、彼が舞台で登場しなかったことで大きめのエピソードが一つ消滅してしまいました。悲しい。

それは第6節「REMARKABLE INCIDENT OF DR. LANYON」(ラニョン博士の変事)と、それの真相編である第9節「DR. LANYON'S NARRATIVE」(ラニョン博士の手記)。

どんな話かというと、ジキルがリージェンツパークでうとうとしていたら突然ハイドの姿に変身してしまい、家に帰るに帰れなくなり、ラニヨンに元に戻る薬を持ってきてもらう事にする、という話。
このエピソードの何が好きって、心底ジキルおじさんの性格が悪いという事(そこ?)。
詳しくは下記の記事を参照してくださると助かります。
snow-moonsea.hatenablog.jp
「つまり、君はそういう奴だったんだな」って言いたくなります。

行動しているのはハイドだけれど、どう考えてもこのくだりはジキルおじさんの私怨だと思うのですが、ジキルはこの頃のハイドの事を「もう私とは呼べないので」などと第10節「HENRY JEKYLL'S FULL STATEMENT OF THE CASE」(この事件に関するヘンリー・ジーキルの委しい陳述書)に書いているので、「本当かぁ~~??」って言いたくなりますね(笑)

そう、その「本当かぁ~~??」って言いたくなるのが読者で、それを代弁しているのが後継者くんなわけです。

なお、ラニヨンの仲違いのエピソードは舞台上で「ラニョン博士が僕の研究を科学的異端だと言っていた」とジキルが言ったことである程度は残されることになり、後継者くんによる矛盾点の指摘の対象にもされています。
凄くうまいですね……。
そしてやはり第10節、ジキルおじさんの言い分が全く信用ならない…。

エンフィールドの不在

もう一人、原作に居て演劇にいない人物がいます。
その人はリチャード・エンフィールド。アタスンおじ様の年齢の若い従弟。
アタスンおじ様とは日曜日に一緒に散歩する仲です。

第一節「STORY OF THE DOOR」は、エンフィールドが遭遇した奇妙な事件の物語です。
それは、小さな女の子が十字路で小柄な気味の悪い男とぶつかってしまい、慰謝料を請求したら気味の悪い男は家に入っていき、明らかに別人の名前の書かれた小切手を差し出した…という話。
舞台ではエンフィールドがいなくなったことで、アターソンが遭遇した事件になっていましたね。

でもそのせいの弊害がひとつあって、それを私は悲しく思っているのです。

それはハイドがアターソンと初めて出会ったタイミングが異なる為、第2節「SEARCH FOR MR. HYDE」(ハイド氏の捜索)、第7節「INCIDENT AT THE WINDOW」(窓際の出来事)が消滅してしまった、ということ。

特に悲しいのは第二節「SEARCH FOR MR. HYDE」(ハイド氏の捜索)!
このシーンのハイドちゃんの挙動不審さが大好きなのでとても悲しい。
ハイドはつまりジキルですから、変装中に親友に話しかけられて明らかに動揺してしまいます。
可愛い。

ああ!
「顔を見せて欲しい」と言われて躊躇したあとに意を決して振り返って見せるハイドちゃんが観たかったなぁ!
(でもそこまで求めるのはわがままだとも思う)

それから第二節「SEARCH FOR MR. HYDE」(ハイド氏の捜索)がなくなったことで、アターソンがハイドの住所を聞く事が出来なくなっていますが、その代わりジキルの家ハイド家が繋がってるような構造に変更になっていましたね。

原作でのハイドの住所はソーホーで、ジキルおじさんがわざわざハイドの隠れ家として購入した場所だったり…。
お金があると根回しも凄いなぁ(しみじみ)

そのほかの話

他にも気になっているポイントはたくさんあるのですが、既にこの記事が16000文字を突破したので自重しようと思います…。
例えば、毒薬を飲むシーンとか、エンディングのオリジナルシーンとか……書ききれないです。

ただ、改めてこう書き出してみると脚本家さん凄いなと思いまして。
ただ原作に忠実に演劇にしただけではなくて、結構考察が散りばめられているので繰り返し観るの凄く楽しいと思います。

配信アーカイブの話とお礼

さて、前回感想記事を書いてからTwitterやマシュマロで色々な情報を提供していただきました。
観劇の世界は不慣れで、思ったところに情報を見つけられなかったり、チケットの買い方に戸惑ったりしていました。
現に、間違えてトークショーのチケット買ってしまったりしていますし。

情報をいただけたのは嬉しかったですし、特に観劇勢の親切な方々が何名か、Twitterやマシュマロでアーカイブの存在を教えてくださいました。
文学沼の仲間が「どうしてもスケジュールが合わない!」と言っていたのが記憶に新しかったので、彼女にも情報をシェアできました。
その結果、彼女と通話しながら同時再生視聴するお家応援上映会なぞをすることになりました…!

アーカイブの存在は全く知らなかったので非常に助かりました。
ありがとうございます(*'ω'*)

週末はいよいよ二回目を観ることが出来ますし、この記事を書いたことで私の心の準備はばっちりです。
心行くまで楽しめたら幸せ。

では、行ってまいります!

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