観劇をしました。
「あれお前先週も観に行ってなかったっけ」って話ですが演目違うので……ねぇ?
今回観たのは極上文學「ジキルとハイド」。
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まだやや供給過多でほわほわしています……。
私はあくまで文学沼の住人で、舞台というものには理解が薄いので覚書ですが、忘れてしまうのが怖いので書き残しておこうと思った次第です。
(ドールは拙宅のジキハイ組。左からヘンリー・ジキル、ガブリエル・ジョン・アタスン、エドワード・ハイド。例によってオビツ11で作りました)
もしも読まれる場合、ネタバレも多少は…いや、かなりあると思いますので、ネタバレを嫌う方はこれより先を読む事はおすすめしかねます。
テンション上げ過ぎた、知ってる。
最初に言っておくと、私は「文学作品をサブカル的に愛するオタク」です。
キャラを愛でたり、ファンアート描いたり、二次創作したりクロスオーバーさせたり…そういうオタク的思考を文学沼でしている生き物。
その中でもロバート・ルイス・スティーヴンソン著『ジキル博士とハイド氏』は思い入れの深い作品の一つ。
人生が変わったとさえ思っている。
(『フランケンシュタイン』の時も同じようなこと言ってるけどニュアンスが違います)
かつてロンドンに行ったのも、今作の聖地巡礼をする為でしたね。
リージェンツパークとかソーホーとか……。
つい先日の事、Twitterの文学沼仲間のフォロワーさんが珍しく同じ時間帯にTLにいて、興奮した様子でツイートしていたので詳細を聞いてみたら「『フランケンシュタイン』の舞台が凄く良かった」……というのは先週観に行った舞台「フランケンシュタイン-cry for the moon-」と同じ流れですが、実はその時もう一つ舞台のURLを教えてもらっていた。
それが今回の極上文學「ジキルとハイド」というわけです。
あんまり舞台とか観に行く方でもなかったのでやはりハードルの高さを感じていましたが、「スケジュール的に行けるから何かのご縁…!」と思い、行くことに決めました。
しかしちょっと思いがけないトラブルも。
フォロワーさんがリツイートしてくれていたのが事前トークショーのURLだったらしく、焦った私は最初にトークショーのチケットを買ってしまったのでした。
行く直前に気づいたけど、無事行けました。
テンション上げ過ぎでしょ、と今では思う。
舞台「フランケンシュタイン-cry for the moon-」のチケットがギリギリ取れたタイミングだったので、ちょっと夢見心地だったから……。
最も、トークショーも舞台裏の話が聞けたのは面白かったですし、事前トークショーというものも初めて鑑賞したので貴重な体験をしました(*'ω'*)
(舞台「フランケンシュタイン-cry for the moon-」についてはこちら)
snow-moonsea.hatenablog.jp
二週連続で友人から「ポツンと一軒家」「なんでそんなところに日本人」とか言われる英文学沼に供給があるなんて……!!
関係者の方々には感謝しかありません。
観劇を終えて最初に思ったこと
さて、今回の演劇の率直な感想は
供給過多でもう何も考えられない……
何を言っているのかわからないと思いますが、終わった後かなり頭の中がぽーっとしていて、混乱していたのです。
それはなぜかと言うと、
原作9割、オリジナル1割、オリジナルの解釈も嫌いじゃない
という私にとっては最高に近いものだったから。
勿論、演劇である以上改変もあるのですが、ほとんど原作通りでしたし、非常に分かりやすく作られていた。
特に、第10節「HENRY JEKYLL'S FULL STATEMENT OF THE CASE」(ヘンリー・ジキルの事件に関する全ての供述)。
あれは色々とどう解釈していいか悩む部分でもあるのですが、だらだらとした説明にならずに短くわかりやすく短縮されていたのが感動ポイントでありました。
また、キリスト教的な概念で恐らく多くの日本人が「?」になってしまう文章の数々(私だってわかりません!)もわかりやすく意訳されていて頭に入りやすかったですね。
完全に「小説という媒体が苦手だが話の内容は知りたい」という人にお勧めしていいやつ、でした。
だから私は最高にハッピーなのです(*'ω'*)
演出が面白い話
ところで、私は朗読劇というものは初めてです。
だから一般的な朗読劇というものがどんなものなのかさっぱりわからないです。
ただ、トークショーの時に聞いた情報から、この極上文學シリーズというのは一般的な朗読劇よりも演技が多くてちょっと変わったもの、という位置づけらしい。
実際に、観劇していて普通の演劇と全然違いが判らないというくらいのレベルです。
ただ一つ、「本」という小道具が重要な役割を持っている事を除いて。
朗読劇というから、台本たる本を読み上げながら演技するものなのかと思っていたけれど、「本」は「本体」であり「概念を象徴するもの」でした。
具体的にはノックをする時のドアの代わり、ワインを注ぐ仕草のワインの代わり、といった小道具の代わりだったり、かと思えば、本を破壊されることで死を表現したり、という感じです。
テーマが文学だから、そういう演出なのだと思いますが、凄く面白いですよね。
小説の良い所は読み手の自由に想像できること。
例えばアターソンの髪の色は何色?コートの色は?帽子の形は?
ジキルは晩餐会好きのイケメンおじさん設定が明言されているけれど、人と会う時はどんな服を着て、実験室に籠る時はどんな服を?
原作には書いてないですから読み手の自由に情景を想像していいのです。
その代わり、その情景は誰にも共有できなくて、誰とも全てが一致することはありません。
演劇は視覚情報だから共有できます。その代わり視覚情報なのでコートの色は目で見えたコートの色で統一されます。
小道具の概念、だとその中間。
視覚で見えているのは「本」だけど、頭の中で見えているのは「ドア」だったり、「ワイン」だったり。
観客の自由に委ねられている。勿論、「私には本にしか見えない」もアリです。
そして文学だから、その物語を綴られている本自体が本体。身体。
概念的な要素がたくさんちりばめられていて、象徴的な「本」の役割が演出上とても面白いものに感じられました。
配役が入れ替わるらしいのです
ちなみに、回によって配役が違うそうです。
私が観た回は下記の配役。
ジキル:梅津瑞樹さん
ハイド:桑野晃輔さん
アターソン:塩田康平さん
後継者:東拓海さん
後継者はオリジナルキャラクターですが、つまり読者を代弁する役割の人です。
日本語訳版ではMr.Gabriel John Uttersonのカタカナ表記がそれぞれ異なり、私は新潮文庫版に倣って「ガブリエル・ジョン・アタスン」と表記したり「アタスンおじ様」と呼んだりしていますが、今回は朗読劇に合わせて「ゲイブリエル・ジョン・アターソン」と表記することとします。
あと…私は普段「ジキル博士(Henry Jekyll)」を「ジキルおじさん」、「ジキおじ」と呼び、「ハイド氏(Edward Hyde)」を「ショタジジちゃん」、もしくは「ハイドちゃん」と呼びますが今回は朗読劇に合わせてジキル、ハイドと表記することとします。(普段がおかしい)
しかし、キャストが入れ替わる形式の演劇、実は二回目の体験です。
初めて体験したのは「ナショナル・シアター・ライヴ :フランケンシュタイン」でしたね。生ではなくて、劇場版でしたが。
snow-moonsea.hatenablog.jp
あれはヴィクターと人造人間が回によって入れ替わるもので、両方のパターンを一週間越しに見たんです。
「二人一組の主人公である感」を強く感じました。
そして今回も、帰宅してからもう既にもう一回観たくなっている。
ジキルとハイドは色々な意味で切れない関係性であり、「二人一組の主人公」とも言えるし「一人二役」とも言えるし、でも「同時には存在できない」とも言える。
回によってジキルを演じた人がハイドを演じたり、その逆もあるそうですが、上記を踏まえると凄く効果的だとも思う。
入場者は出口をくぐる前なら割引の付いたリピーターチケットが買えるそうですが、その場で決めるのは難しかったです。
観た後の供給過多のふわふわ感でそんなことを考える余裕すらありませんでした。
……けれど、このままだと来週行ってそうな気がするんです。なんだか。
来週、別の配役のパターンで。
感想の覚書
前述の通り、原作9割、オリジナル1割の印象。
原作通りという事は、これらの通りってこと。
(青空文庫版はかなりおすすめです。無料で読めるし訳も原文に近い)
どんな話かは上記で確認してもらうとします。
要所要所にオリジナルのシーンは挿入されますが、本当に概ね原作通りなんです。
観ながら「あっ今、第3節……次の台詞は…」と、台詞を先読みできるほどに。
それくらい今回の演劇は原作9割なので、意識しないと原作の感想になってしまいます。
だからある程度限定して覚書をしていこうかと思います。
「信用できない語り手」
演劇のエンディングの部分について、最初に感じたこと。
これは「第10節「HENRY JEKYLL'S FULL STATEMENT OF THE CASE」(ヘンリー・ジキルの事件に関する全ての供述)への疑問の投げかけなのではないか?」ということ。
つまり、「ジキルが信用できない語り手なのではないか」という事を突いたのではないかということ。
正直言って、私がそう思ってる。
滅茶苦茶思ってる。
原作『ジキル博士とハイド氏』は第三者視点で書かれ、読者の視点を担っているのはアターソンです。
この小説は一見ミステリー小説のように見えるように書かれたSF(サイエンス・フィクション)。推理できそうだけど推理できない。
ところが、この第10節「HENRY JEKYLL'S FULL STATEMENT OF THE CASE」だけは違う。
ジキルの遺書なので、語り手はアターソンではなくジキルです。
そして手紙なのでジキルの語りはアターソンの視点だったシーンと違って、リアルタイムで起こっているわけではありません。
要するに、ジキルはいくらでも嘘が書ける。
…この人、案外嘘つきですし。
概ね真実が語られているとはいえど、彼が異常に評判を気にする性癖の持ち主である事を考えれば嘘が含まれている可能性も高いのです。
原作で確認していただけるといいかと思いますが、この第10節、ジキルの言い訳のような言葉が延々と語られている感じです。
まるで被害者であるかのように語られている部分も結構ある……(いややっている事は最低なんですが)
真実が書かれているとは限らない。
「本当にハイドは悪だったのか?」とかね。
二重人格の話、善と悪の物語と言われがちですが…
『ジキル博士とハイド氏』って「二重人格の話、善と悪の物語」と言われがちなんですよね。
でも私はあんまりそうは思っていない。むしろ初めて読んだ時、全然思っていたものと違うからびっくりした。
ジキルは善でハイドは悪、なんて単純な関係性ではないし、多重人格者というわけでもない。
私はジキルの事を「かなり外面が良くてかなり性格悪い」と思ってるけど、でもそれも愛嬌、人間くさくて憎めないところだと思っている。
今回の舞台でオリジナルで挿入されたエンディングは、原作の考察に近い側面がかなりあると感じています。
それは本当にハイドは悪なのかを問うものでもあったと思うのですが、そもそもジキルは善の化身ではありません。
だから善と悪の物語、というのはやっぱり語弊を感じるなぁと思うのです。
私は日頃から「結局のところ、ハイドはジキルの本性の化身である(文字通り)」と解釈しているので今回の演劇のエンディングの部分が受け入れられたのも自分の解釈に近いものを感じたからだと思います。
勿論、今回の演劇でも引用されていた通り原作にそれを感じさせる文章は存在します。
だからエンディングに感じたのは「えっ!?」みたいな衝撃ではなく、「あぁそうだよね、私もそう思うわ…」というものに近い。
ハイドはあくまでジキルの醜い部分を体現した存在で、彼自身が悪ではないのです。いや、彼という個体であると断言するのさえ怪しい、ジキルの別側面。そして本性の化身。
だから、この挿入されたオリジナルのエンディングは原作を考察した内容なのではないかと思います。
そういう風に考えると、「読者の視点」として後継者というオリジナルのキャラクターが用意されたのもわかる気がします。
いやぁ、一周目読んだ時のあの戸惑いを思い出しますねぇ……!
もう慣れたけど。
供給過多で辛かった。
小説を愛でていると、文章から得た自分の空想する情景は自由です。
それは前述の通り。
そして、小説に書いてあれば文章の長さだけ、視覚情報よりももっと多くの情報を詰め込むことが可能です。
例えば、気持ちや、心の中。
アターソンは口ではジキルのことを「ジキル」と呼びますが、原文(元の英語の文章)では心の中と感情が高ぶった時だけ「Harry(ハリー)」と呼びます。
ハリーはヘンリーの愛称系で、それだけ親友とは距離の近い関係だったことがわかります。
だから小説の方が情報量が多いこともあるのです。
けれど形のない文章という情報と、視覚と聴覚はやはり非なるものなのです。
できるなら私の頭の中で描いた情景を視覚情報で観たいと思う。きっと皆そうだと思う。
それに近いものを観せてもらえたのは感謝しかない。
ストーリーやキャラクター性を変えられてしまったら、それはもうその願い・欲求とはまた別のものだから。
私はジキルとアターソンの友情(ブロマンス)を愛でておりますが、アターソンが献身的になればなるほどすれ違っていく関係性が愛しくて。
握手をしたり、抱き合って友情を確かめるシーンには一瞬頭が真っ白になりましたし。
オリジナルのシーンで、ハイドの遺体を見たアターソンが涙を流すというものがありますが、あれも本当に最高です。
アターソンは気づいていない、気づいてはいないけれど、無意識がハイドの正体を察しているかのようで。
観終わった後、茫然として、頭が真っ白で、ふわふわして、何にも考えられなくなってしました。
そして、気がついたらDVDを予約していました。
…おかしいな、最初は買うつもりなかったのに…………。
(これは予約特典でもらったキービジュアル柄のクリアファイル)
……生きよう。明日も頑張ろう。
これで終わり?いや、二周目観たほうがいい。
ここまで書いて、今かなり二周目を観たくなっている。。。
そういえば、私はこの物語を一周目よりも二周目の方が面白いと思っております。
こんな自己中心的な親友の為に、献身的になるアターソンのお人よしっぷりに「やれやれ」と呆れながらも微笑ましく思ってみたり。
秘密がバレたくなくて挙動不審なジキルとハイドの振る舞いに「お前なぁ……」と苦笑いしてみたり。
(演劇ではハイドの挙動不審が顕著な第2節「SEARCH FOR MR. HYDE」(ハイド氏を探して)は省略されていましたが…)
真相を知った後と知る前との読者としての印象の変化を体感するのは非常に面白い。
私は真相を知っているから、一周だけでいいかなと思っていたけれど、前述の「一人二役」を体感したいし、もう一回初めて二周目以降を体感した時の思いを再体験したい。
最も、本当に二周目を観るかは状況を観ながら決めますが、もし観られる環境にあって迷われている方がいるなら原作ファンからおすすめ致します。
余計なお世話だとは思いますが(苦笑)
楽しかったです、ありがとうございました。