海に浮かぶ月のはしっこ

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【映画】「ナショナル・シアター・ライヴ :フランケンシュタイン」はフランケンシュタインと怪物しかいない世界のように見えた

いい加減、仕事が始まる前にこれを書かなければならないと思いましたので書かせていただこうと思います。
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2018年はメアリー・シェリー著『フランケンシュタイン:或いは現代のプロメテウス』の出版200周年。2019年は201周年というわけです。
というわけで色々とフランケンシュタインを題材に使った本やイベント、著者関連の映画等様々なものが催されていたたようなのですが…

その中の一つが12月中旬から年末までの期間限定特別上映された『ナショナル・シアター・ライヴ 2014 「フランケンシュタイン」(製作年2011年)』。色々な理由が重なって3回も観てしまったので、私の中でちゃんと整理をつけて書き出そうと思います。
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前提:最初に言っていくこと

一応これは書いておくべきなのかな、ということで「ナショナル・シアター・ライヴ」と原作について書いておきます。

ナショナル・シアター・ライヴとは

最初に、「ナショナル・シアター・ライヴ」について。
www.ntlive.jp

ナショナル・シアター・ライブ(NTLive)は英国ナショナル・シアターが厳選した、世界で観られるべき傑作舞台を こだわりのカメラワークで収録し各国の映画館で上映する画期的なプロジェクトです。
https://www.ntlive.jp/home

つまり、舞台演劇作品です。
私はこういった舞台演劇作品を映画館で観るという試みは恐らく初めての作品ではないかと思います。

そして今回の『ナショナル・シアター・ライヴ 2014 「フランケンシュタイン」(製作年2011年)』ですが…
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ベネディクト・カンバーバッチ氏とジョニー・リー・ミラー氏の二人がダブルキャストを勤めた作品です。
ダブルキャスト…ヴィクターと怪物(クリーチャー)の二人の役が交換され、今回の特別上映ではこのキャストが交換された二種を観る事が出来ます。

色々な事情が重なった結果、ベネディクト・カンバーバッチ氏が怪物を演じた回(表記では怪物編)を2回、ベネディクト・カンバーバッチ氏がヴィクターを演じた回(表記では博士編)を1回観る事になりました。

原作設定について

まず恒例の「フランケンシュタイン:或いは現代のプロメテウス」について。

フランケンシュタイン (新潮文庫)

フランケンシュタイン (新潮文庫)

近代SF小説の祖だとかマッドサイエンティストの祖だとか言われている1818年の小説。
SF作家メアリー・シェリー女史の処女作で18歳の時の作品とされています。


こう、なんか原作慣れしてしまうと「いやそんなの当たり前…」って思ってしまうのですが、現在の一般認識は「フランケンシュタイン(1931年)」の影響が強いものと思います。

ええ…だからフラッとこの辺鄙なブログにアクセスしてしまった人に向けて、一応これは書いておかねばならないかなって思っているのです(;一ω一)


原作はかなりイメージが異なっていて……けれど冷静に考えると凄くたくさんの要素を内包しているのでメディアミックスされると「どの部分を重要テーマに置くのか」という事でかなりストーリーやキャラクター性に影響が出てくるみたい(・_・*)


主人公はスイス出身の大学生ヴィクター・フランケンシュタイン
原作の彼は確かに天才ではあるのですが……はっきり言って「コミュ障で豆腐メンタル」です ( `・ω・´)+
物語の重要な転換ポイント・人造人間の創造を成し遂げるも、重要な場面で意識を失ったり、動けなかったり、逃げてしまったりする大学生。よく「フランケンシュタイン博士」と言われますが、博士ですら、ない。
そしてコミュ障だからなのか、もの凄く鈍感(-_-)

一方、人造人間は名前がなく、ヴィクターは(怯えながら)「怪物」と呼んでいます。
彼は賢く、2年で言語、法律を習得し、ヴィクターの身内を殺していく復讐鬼。醜く奇怪な自分の姿を恐れて人間が危害を加えるのでヴィクターを脅迫した上、「自分と同じ存在を花嫁として作れ」と命じます。身長は2.5m。でかい。
しかし良心はあるので、どうにもヴィクターを脅迫するために身内を殺す度、罪悪感を募らせている描写があります。策略の為に悪役を演じているかのような。根は繊細な心の持主なのです。
ついでにボルトとか刺さってないし、継ぎはぎだらけという描写も特に見当たらないのだけれど。


私の主観ですが、原作設定はそんな感じです。

感想

率直な感想を述べるなら、「満足感が凄い」
何故満足感が凄いのかはおいおい考えていきたいところですが、テーマがかなり絞られているという点も大きいと思います。とにかく、濃厚

原作は様々なテーマを内包する上に、ヴィクターくん(※以下、原作のヴィクター・フランケンシュタインを表す場合は「ヴィクターくん」表記といたします)がこんな性格なのでなかなか物語が進まない部分があります。映像として見るとまどろっこしい部分はあるんじゃないかと思う。

メディアミックスではそこを変更する事で話をスムーズにしている事が多いという印象を受けますが、この作品では原作ベースなのに結構性格が変わっている。
ヴィクターくん萌え(※敢えて…)的には「私の大好きなヴィクターくんがクズ仕様になってるーーー!!!( ゚Д゚)」と戸惑いを隠せない所ではあるのですが、まぁ…それは個人的な感情です。

個人的には、同じように「科学者フランケンシュタインはクズ」だという感想を抱かれるのなら、「2時間でわかる「フランケンシュタイン」」をやるなら「フランケンシュタイン(1931年)」ではなく今作を観せてほしいと思う。

いいえ、勿論原作のヴィクターくんは、もっと臆病でヘタレでコミュ障なモヤシ体型の薄幸の美青年なのですよ!(※「美青年」は私の妄想)

原作との差異について

この作品は原作設定にほぼ忠実で、物語の展開もほぼ同じです。
けれど、恐らくは原作の内包するテーマのうちいくつかのテーマを抽出する上で演出や設定を変えている。

各人物のキャラクター性も異なっていますし、重要な登場人物の何人かが消されています。
裁判系統の出来事もすべて消去されています。まぁ……原作の裁判系統の出来事は怪物の仕組んだ罠であると同時にヴィクターくんはただ怯えてるだけで何もできないイベントでもあるのでまどろっこしいといえばまどろっこしいのですが(;一ω一)

でもエンディングの舞台も同じなのにウォルトン隊長(船で北極を目指す探検隊の隊長で、怪物を追って北を目指し衰弱したヴィクターくんを拾った人物)がいない事で、テーマが絞られている感じはします。

ヴィクターと怪物の物語

一言でこの作品を言い表すとしたら「ヴィクターと怪物の物語です」。もっといえば、「ヴィクターと怪物しかいない世界の物語」

原作も本来は「ヴィクターと怪物の物語」なのだと思う、そうなんだと思いますが……
原作はヴィクターくんの視点で描かれる物語で、どちらかと言えば「身内がじわじわ殺されていくホラー」感があります。
ヴィクターくんのキャラクター性は上記の通り、「土壇場で気絶する」「怖くなったらすぐ逃げる」「コミュ障で豆腐メンタル」なので……君は絶叫クイーンか(ヴィクターくんは悲鳴を上げる余裕もないけど)。

絶対洋館ミステリーとかでは「僕は先に部屋に戻っているから…(心の中:殺人鬼がいるかもしれないホールに留まっていられるか)」とか言って事件直後アリバイがないってことで最初に犯人として疑われるタイプですね。合掌。


しかしヴィクター(※以下、今作のヴィクター・フランケンシュタインを表す場合は「ヴィクター」表記といたします)はキャラクター性から違います。
強く、傲慢で、自分だけが人間でありながら人間より優れた唯一の存在だと思っている。

でもそれも舞台演出的な面で、納得させられるような感覚がある。

ヴィクターと怪物だけ浮いて見えるんです。
それはダブルキャストという要素が強く影響しているのですが、ヴィクターと怪物だけが舞台装置ではない存在に見える

この演劇は二種類あります。「ヴィクター役がカンバーバッチ氏、怪物役がミラー氏」のバージョンと、「ヴィクター役がミラー氏、怪物役がカンバーバッチ氏」のバージョン。
主役のこの二人以外はほぼキャストが同じです。

だから二人以外はほとんど同じ動きをします。流石プロ、と言えますが、そのせいで舞台が凄く機械化されたように見える。でも恐らくはカンバーバッチ氏とミラー氏も、ある程度自由な演技を求められていたんじゃないでしょうか。ヴィクターと怪物だけは全く違うんです。
同じ状況、同じ台詞、同じ行動のはずなのに、動き、仕草、まるで違う。
だからヴィクターと怪物だけは同じ舞台の上で他の人々とは別の世界に生きている存在のように見えます。

エンディングは原作ベースでありながら、原作で怪物と対峙するウォルトンが存在しない。
だからヴィクターと怪物の一対一のやりとりになる。

また、二人が同じ仕草をしたり鏡合わせのようなポーズで座るシーンもある。
これはヴィクターと怪物の物語なのです。

愛を理解する者、愛を理解しない者

この物語の中で、「愛」というキーワードがよく登場しています。
ヴィクターが怪物に「愛とは何だ?」と尋ねるシーンがありますが……ヴィクターはそれに対して「その言葉を待っていた」「少しは愛について分かっているようだ」と言いますが、挙動が少しおかしいです。
その辺り、本当に役者さんの演技が最高に上手いです。

ヴィクターは様々な優しい人々から愛情を向けられているが愛を拒絶し愛を理解しない、愛情というものを理解できないキャラクターとして描かれています。
「愛がわからない。憎しみしか理解できない」とすら言っている。
人間らしさ…というか、人間的な温かみを欠いている。自分以外は皆とるに足らない、ちっぽけで下等な存在で、怪物はおろかエリザベスに対しても父親に対しても明らかに見下した態度をとりますし、相手の気持ちを顧みない。体面上はつくろって、行方不明になった弟を心配する素振りをするけれど、弟のお葬式が行われても大して悲しむ様子はない。ついでに、童貞である事も言及されている…。

その逆として、怪物は愛を求める存在です。愛を求めるが拒絶され、しかし愛情とはどういうものなのか本能的に理解し、それを説明することのできるキャラクターとして描かれています。
特に、ヴィクターに新しく造られた花嫁を花嫁として提供してくれるように懇願するシーンなどは名場面の一つだと思います。…今思うと、『失楽園』第八巻のアダムが神に花嫁を求めるシーンに似ています。


そして……原作にはない恐ろしいシーン…怪物がヴィクターの婚約者エリザベスを復讐の為に性的に襲うシーンもあるので彼はエンディング直前に非童貞になっています。(こういうものはこの作品に限らず本当に嫌なので、3回のうち1回は目をそむけてしまいました。でも怪物編と博士編、1回ずつは一応観ました。本当に嫌です。)
怪物がエリザベスを襲い、息の根を止めた瞬間に「これで俺も男だ!(※翻訳)」と叫ぶシーンがあります。それはヴィクターと怪物が真逆の存在になるという事も言えるのですが、非童貞という意味ではなく「人間」という意味でも取れるのではないかと思っています。ほら、人間も男も同じ「man」だから。

そういう風に考えた場合、人間とは何か、という方へも考えが及ぶ。
それから、その場合の人間は生き物、っていう意味にも取れる。

怪物と知恵の実

もしあのシーンの台詞を「これで俺も人間だ」と解釈するとしたら、「怪物=それまで人間ではない」になる。
私はそう考えるなら、「怪物=作品だった」と考える。

作品、だと生き物ですらない…「物」、の扱いに感覚が近いですよね。
クリーチャーは「(神の)創造物(=生き物)」という意味。エンディングに「科学者よ、貴方の創造を殺しなさい」という台詞がありますが、これも「クリエイション」と言っていたのでそこに通じる気がします。

ヴィクターの台詞の中で「知恵の実」という台詞もありましたし、エリザベスがヴィクターの行為を「神に成り変わろうとして失敗したのでしょう?」と言い放つシーンもあります。
怪物に言葉を教えた老人(原作のド・ラセー氏にあたる人物だが彼は怪物に直接言葉を教えない)が怪物に「楽園」「原罪」について教えるシーンがあるのも印象的ですね。


元々『フランケンシュタイン』という作品はジョン・ミルトン著『失楽園』が度々引用されている作品です。
失楽園』はアダムとイヴの原罪の物語をベースにした叙事詩で、悪魔の王サタンが神への復讐の為にアダムとイヴに神を裏切らせる(知恵の実を食べさせる)までを描いた作品です。

失楽園 上 (岩波文庫 赤 206-2)

失楽園 上 (岩波文庫 赤 206-2)

(『失楽園』は私の愛読書です(・ω・*) サタンとベルゼブブの主従が好き。)

だから、この要素はとても強い影響を持っているわけですが、このNTL版フランケンシュタインでは原作よりそれが強調されて見えるのでテーマに大きく関わるものだと思います。


失楽園』での原罪は「知恵の実を食べた」事が第一段階。第二段階は「性行為」です。


元々、『失楽園』は動物たちはつがいを作る事を許されていたのに、アダムにイヴが与えられたのは結構後らしい。アダムが神に懇願して、伴侶を求めるシーンがあります。(『失楽園』の第八巻参照)
そしてアダムとイヴは知恵の実を食べた後に性行為を行い、裸である事に羞恥心を持ちます。楽園を追われるのは、それから。

楽園を追われること=死の運命を背負うということ。
生き物は生殖能力を持ち、やがて死ぬから生き物なのだ、と考えるなら、楽園を追われて初めて彼らは生き物になったと考えられるかも。


それまで、怪物は自分の事を「人間」とは言いません。
彼に言葉を教えた老人は彼を「怪物じゃない、人間だ!」と庇いましたが、怪物はその言葉を聞きません。
怪物はヴィクターに対して「科学の王よ」と縋るシーンもあれば、花嫁が作られていくシーンを見て「俺は死体と犬の餌(臓物のこと)から作られたのか、俺でさえ吐き気がする」と声を漏らすシーンもある。
なので、怪物は自分の事を自らヴィクターの作品と捉えているようにも思えます。

また、ヴィクターは夢で「生殖能力はあるのかな」という言葉を聞いて我に帰り、完成間近の怪物の花嫁を処分しました。
その後、怪物はヴィクターに目撃されるようにエリザベスを襲う事で生殖能力がある事を証明している。

だから怪物の「これで俺も男だ」の次の台詞が、「俺を殺してくれ!」だったのかも、です。

創造主としてのヴィクター

この作品のヴィクターはエリザベスの言葉を借りれば「神に成り変わろうとして失敗した者」です。
神=創造主。『失楽園』でアダムも神を「創造主(つくりぬし)」と呼んでいます。

創造者、創造主…クリエイターです。
作家、制作者という意味もある。彼らが作るものは「作品」です。


終盤でヴィクターは結婚式を上げますが、それは怪物をおびき寄せる餌だったと断言しています。つまり、エリザベスに対して愛情はない。エリザベスは「命を作りたいのなら早く私と結婚すればよかったのに!」と詰りますがそれをヴィクターは「そうじゃない!」と怒鳴り返します。

勿論、エリザベスの主張する「命を作る」は生物として子供を作るという意味。

ヴィクターは二本足で立ち、言葉を話すまでに成長した怪物を見て、驚き、「素晴らしい筋肉バランス」「繋ぎ目もほつれていない!」と感動の言葉を叫びます。まるで数年前に描いた絵を自画自賛するかのよう。(原作では恐怖と怒りでパニックになるヴィクターくんが見られます(・ω・*))
怪物を作品として扱っています。
おまけに、怪物を奴隷と罵る。エリザベスに対してもそうですが、差別的で、口の悪い人物です。(原作のヴィクターくんはそんなことないぞ!)

ヴィクターの主張する「命を作る」は作品として生物を作るという意味です。


ヴィクターはエリザベスに対して「素晴らしい伴侶だ、美しい」と言い、エリザベスは「私は標本じゃないわ」と言います。
怪物に花嫁を作り出して欲しいと言われたヴィクターは「花嫁は美しくなければ」と言って言っているうちにだんだん「素晴らしく、美しい、女神のような人間を作る」という新しい作品作りに陶酔してしまいます。
(原作だと嫌々承諾せざる得ない感じになった印象が強い)

新しい作品作りに没頭し、完成間近まできた時にヴィクターはその出来栄えに大層満足しているのですが…夢で「生殖能力はあるのかな」という言葉を聞いて我に帰り、完成間近の怪物の花嫁を処分します。


つまり…「生き物を作っている」という感覚が、凄く薄い。


多分、ヴィクターの「神に成り変わろうとして失敗した」ってそこだと思うんです。作品としてしか扱えなかった。
そして本人も自覚している通り、愛がわからない人物。心がない。

人間になろうとしたのが怪物なら、人間を造ろうとして人間がなんなのかよくわかっていなかったのがヴィクター、と考える事も出来るかもしれないです。

エンディングについて

正直言って、この物語のヴィクターは本気で可愛くない
原作のヴィクターくんを「どんなに情けなくても、そのままの君が好き!!可愛いッ!」と言って愛で、擁護しがちな私としては遺憾の意となりうる作風なわけですが……満足感が凄い。

エンディング…ある意味和解エンドなんです。

北極まで追いかけて犬そりの犬は皆死んだ…という状況で、ヴィクターがギリギリ死なずに追いかけてこられるように、怪物はヴィクターに度々餌をやる……というのは原作と同じなのですけれど。

ヴィクターが力尽きたのを見て、怪物はヴィクターに「私達はひとつだった」「愛して欲しかった」「可哀想な創造主!」と嘆き、ヴィクターが目を覚ました時、「創造主よ!愛してくれたのですね!」と心底喜び、ヴィクターは「愛を拒絶し、私は憎しみしか理解できない」「お前だけが生き甲斐だった」と本心を怪物に話す。
そして「愛とはなんだ?」と怪物に訊ねると、怪物は「教えましょう!」と喜ぶ。

このやり取りが本当に尊いもので、それまでヴィクターの在り方に胸くその悪さを募らせ、おまけに怪物がエリザベスにした恐ろしいシーンのせいで不安と煮えきらなさしかなかった気持ちが一気に満足に転換される。
この転換、素晴らしく上手いです。


原作では一切心を通わせることなくヴィクターくんが衰弱死してしまうので、こういうやり取りは一切ないのです。
だから、ヴィクターが目を覚ます直前で、多分物語はいったん終わっているのだと思う。

でもそのあと、二人はようやく心を通わせる事が出来ます。
ただし、彼らはヴィクターが怪物を追いかける、という関係を続けることを選択し、怪物は「科学者よ、貴方の創造を殺しなさい」と言ってヴィクターの前を先導し、幕……。


元々、前述の通りこの物語はヴィクターと怪物二人だけの物語だと思っている。
ダブルキャストという演出が上手くきいていますね。二人はいつの間にか対になる存在と化しているのです。
…いや、しかし怪物編を観た後に博士編を観て、私はこの世界で動いている本当のキャストはこの二人しかいないのではないかとすら思いました。もしも狙ってやったのなら本当に見事です。

しかし、「貴方の創造を殺しなさい」…。ここの創造は「クリエイション」。
creationの意味・使い方 - 英和辞典 Weblio辞書
神によって作られたもの、という意味もありますが、主な意味は「作品」……。


もしも愛を理解できないヴィクターが、怪物を息子(作中でも怪物がエリザベスに「醜い子供」という表現をしている)として愛する事ができない、しかし作品としてなら愛着を持って接する事が出来る、とするなら……。
怪物はようやくヴィクターの前で「自分が人間である、生き物である」と証明してみせたのに、自分が生き物として生きる事を諦め、ヴィクターの作品として愛される事を望み、しかし「自分は生き物なので殺せと要求している」ということになるのでは……。

その他、まとめ。

ようやくまとめに入らせていただきます。
率直な感想は「ヴィクターくんが可愛くない!!!」なわけですが、この作品は派生作品としてはかなり完成度の高い作品だと思っています。

娯楽的な気持ちでもう一度観たいかと言われるとNOですが、芸術鑑賞としてもう一度観たいかと言われるとYES。
私は「フランケンシュタイン」の主人公が好きすぎてこの作品を娯楽的に楽しんでいる節が強いため、原作とは別の作品として観賞すべきだと思っております。

作中どんどん募っていった胸くそ悪さがエンディングで解放される瞬間がどうにも快感で、それをもう一度味わいたいと思ってしまいます。個人的にはヴィクターがベネディクト・カンバーバッチ氏、怪物がジョニー・リー・ミラー氏のバージョンが好きですが、これは両方のバージョンを観て味わった方がいいやつ。
「カンバーバッチ氏演じるヴィクターの方が、やや原作の頼りなさがあって好き」っていう私の趣味です。怪物が目覚めたシーン、ひっくり返ってましたからね(笑)


今作は怪物が目覚めるシーンから始まり、怪物が赤子の精神から徐々に成長していくにつれ、自分が人々から忌み嫌われ醜さゆえに攻撃されるのだと学習していくところから始まります。
この一連の怪物の動きも、二人の俳優で演じ方がまるで違います。ミラー氏の怪物はやや人を真似るのが好きという印象がありますが、カンバーバッチ氏の怪物は無垢で無邪気な印象があります。
もっとも、それも「言葉」…………いや、この物語は「知恵の実」が象徴的なので、「善悪」を知るまでの話。

残念な事に、老人が教えた「言葉」は怪物にとって「知恵の実」になってしまった。
「知れば知るほど、わからない事が増える」

そして言葉を学んだ怪物は本によって身に付けた知識によって悪を知ってしまった。
「裏切られた時皇帝はどうしたか?…復讐だ!」


そしてヴィクターを誘い出すためにヴィクターの身内を殺す……。
もの悲しいです。でも、原作のもの悲しさとは違うのです。

だって、老人もその息子のフィリックスと妻のアガサも舞台装置に見えるから。
最初からこの世界にはヴィクターと怪物しかいないから。


2018年の最後に、フランケンシュタイン200周年の最後に凄いものを観た、という感覚があります。
円盤化されていないのは残念ですが、3回観る事が出来た幸運には感謝しております。

好き勝手書かせていただきましたが、そろそろ1万字を突破したのでこの辺りで筆を置きたいと思います。(やばい…文字だけで6時間くらいかかってる…)
最後に、この作品の事を教えてくれた&フランケンシュタインオフをお付き合いくださったスグリさん、ありがとう!(*^_^*)