海に浮かぶ月のはしっこ

映画や文学作品、神話関連その他の事をおぼえがきしますよ

【観劇③】本格文學朗読演劇シリーズ 極上文學「ジキルとハイド」を原作ファンが観たら、気づいたら5回観てた

公演期間が終わって数日が経過。
まだ興奮冷めやらぬ、というか、ソワソワして落ち着きがありません。
依存症?そんなばかな…

2回目を観た後の話と感想。
いや、それが2回目どころではなくなってしまったのですが。

つまり……全キャラコンプしましたよ!
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激しいネタバレを含みますし、少々愛故の暴走がありますので、大変申し訳ありませんがその点はご注意ください。

最初の記事
snow-moonsea.hatenablog.jp
二番目の記事
snow-moonsea.hatenablog.jp


★引用について
引用はすべて下記から行う事とさせていただきます。

Project Gutenberg 「The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde by Robert Louis Stevenson
青空文庫ジーキル博士とハイド氏の怪事件
底本:ロバート・ルイス・スティーブンソン/著「ジーキル博士とハイド氏」 佐々木 直次郎/訳 新潮社(1950)

上記のどちらもパブリックドメインや著者が許諾した作品の公開をしているブラウザ形式の電子図書館です。
Project Gutenbergには原文が、青空文庫では日本語訳版が掲載されています。

また、私が「第●節」という場合は、私が勝手に話の始まりからエンディングまでの区切りのサブタイトルに数字を振っているだけにすぎません。
でもその方がどのあたりかわかりやすいでしょう?…と勝手に思っています。

気づいたら丸一日コースだった

前回、2回目を観に行くとの事でブログの記事を上げました。
2回目のチケットは1月29日昼を購入。
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(ここの写真撮って良かったんですね……初回撮れなかった……(´;ω;`))

でも会場に来て、まだ開幕まで随分と時間がある時に観客席にぽつんと腰掛けてみると、ふと頭にTwitterで親切にしてくださった観劇勢の方とのやりとりがよぎったのです。
「昼と夜両方観る丸一日コースの事をマチソワという」…らしい。そうか、そういう考えもあるのか。
それまでの私の発想の範疇にないことでした。
でも確かに、キャスト変更があるんだよなぁ…って。

そして、文学沼なんて供給が砂漠みたいな世界で、推し文学が取り上げられて、しかも原作リスペクトが強くて解釈が大きくズレない供給が90分間も与えられる事なんてあるのか?
いや、滅多にない。きっと10年に1度もない。
これは祭りだ。
10年に一度も行われない祭り。

そう自問自答して、Twitterにその気持ちをぶつけてみたら、「昼と夜と通してみると理解が深まる」「推しは推せる時に推せ!!!」などというお言葉しかいただかなかったので……

気づいたら、2回目を観終わった時には3回目のチケットを買っていました
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しかし、翌日に約束がなくて、主役が観たことないペアの組み合わせだったら翌日4回目を強行していた可能性が高い。
…危なかった…。
とは思ったものの、正直今ではそれがとても残念でたまらないのです。あと数回観ておきたかったと数日過ぎたら思ってしまって。
ちょっと中毒かも、です。
もう一度観たいと思ってしまうのです。延々と。
気づくと、シーンの断片を頭の中で反芻している。

翌日は、約束通りアーカイブで25日昼の回を文学沼仲間の人と通話しながら同時再生してリモート同時鑑賞しました。
これで合計4回観たことになり、これで全キャラコンプリート。

…まさかコンプリートする事になるとは。
最初からこうなると知っていたら観方もチケットの買い方もだいぶ違ったものになったのではないかと今は思います。

そして、初回はあんなに時間が長く感じたのに2回目と3回目の時間の短く感じる事!
新しい情報が少ないから脳がリラックス出来るのでしょうか…不思議です。
もっと欲しいです…強欲ですね。

そして最後にもう一回一人でアーカイブ観ました。
5回観た…けどまだ足りません。最高なんです、最高過ぎるんです。
DVDが来るのが待ち遠しくて、辛くてたまりません。

あまりにも辛いのでファンアート描いてました。
キャラクターデザイン可愛いですよね。
ジキルは白コート+濃青+銀系のカラーリングでコートが白衣に見えるし、ハイドちゃんはそれに対して黒+赤+金で対になっててちょっと海賊風の優雅な粗野があるし、アターソンはケープが少し探偵を思わせるので彼のポジションをよく表していると思うし、後継者くんは落ち着いたトーンのカラーで「物語の外の人物」感がよくわかりやすい。そして可愛い。
演じる人によって小物やエクステの色でキャラの違いを出しているのも可愛い。

…可愛いしか言ってないですね(笑)

観劇初心者が思い知ったこと

初回は一般席で観て、全体の雰囲気がわかったので2回目は前列確定の極上シートを選択しました。

…すごい近い。

近いと表情までしっかり観えるのがいいですね。
私は映画だと前から2番目くらいの席が好きですが、観劇でも前の方がいいかもしれない。極上シートにして正解でした。

そして何より、お土産にくれる特典が可愛い。
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えっくれるの?本当にくれるの??
私の作ったグッズじゃないジキハイのグッズを??本当にくれるんですか??!!??
(※推しジャンルが砂漠過ぎて外部供給に戸惑うオタク)

2回目と3回目の2回を極上シートにしたので特典は2つですが正直いうともっと欲しい(強欲)
と、それもそうですが、あと数回劇場で観たかったという心残りの方が大きいと思います。
そもそも、2回目するならリピーターチケットを買っておけば良かったじゃないか、と。

でも、観劇慣れしていない私からすればそれも仕方なかったのだと思うしかないですね。


2回目を観たことで1回目は浮き足立っていたことがわかった。
2回目は冷静に見られた。
3回目になってキャストチェンジによる差を感じたくなってきた。

そして5回観ると、キャストさんの違いだけじゃなくて「あの日のあのセリフの言い方」「ちょっとしたハプニングによる仕草の違い」って再現不可能であることがわかって、観劇勢の方が何度も劇場に足を運ぶ理由が明確に分かってきた気がします。
アーカイブで観ていても、あの日あの時の言い方が思い出されて、「あぁあれはDVDに収録されないからもう二度と観られないんだ」って。
私は映画勢だったこともあるけれど、映画は何度見ても再現率100%。でも舞台はそうじゃない、って頭ではわかってても、こんなに肌で感じたのは初めて。
そしてあの日の一回がとても恋しく感じるんです。

どれも忘れがたくて、あの一瞬の仕草が恋しくて、でももう二度と観られなくて。
それが辛くて悲しくて愛おしい。こんな気持ちになるなんて、思いもよりませんでした。

キャストさんによるキャラクターの違い

キャストさんによって全然違う、という話を聞いたが半信半疑だった…というのは前回も書いた事なのですが、本当にキャラクター解釈が全然違ったので驚いています。
しかも、どれをとっても「原作のあの部分の描写からかな」という感覚になるのだから本当に面白い。
そしてどの役者さんの、どのキャラクターにたいしても解釈違いが起こらなかった奇跡に感動すら覚えている。

せっかくコンプリートしましたし、Twitterやマシュマロでメッセージをくれた方が気になると言ってくださったのでそれぞれの印象についてまとめてみます。

二役やってる方はジキルとハイドで対になってるらしいと聞いたのでちょっとそのことも。

なお、キャラクター表記については今回の舞台のキャラクターは舞台の配役表記に倣って、ジキル、ハイド、アターソン、後継者とし、原作の方は普段の私の呼び方でジキルおじさん、ハイドちゃん、アタスンおじ様とします(謎の馴れ馴れしさ…)

ヘンリー・ジキル

事件の中心にいる主人公であり、一人二役の黒幕。お金持ちでイケメンで善良で誠実で社交的、医学、法学、民法学の博士号を持つ超ハイスペック医学博士。
自分の秘めた悪の本性に悩める人、もしくは自己擁護のために自分の悪事を自分の別側面へ責任を押し付けている人。
主人公…。

私のイメージとしては「もしもモリアーティ等のホンモノの黒幕系悪役に「君の名誉は守ると約束しよう」と言われて勧誘されたら全力で協力しちゃう上に、大して大物でもないので状況が悪くなったらトカゲの尻尾切りみたいにペッてされるタイプの中ボス」。
警察にビビっているようでは悪役としては大物にはなれない。

初回/梅津瑞樹さん

初回なのでストーリーを追うのが精一杯だったため、もう一回観直したいです。

序盤の印象と終盤の印象がかなり違うので、感激すら覚えました。
序盤は育ちの良さと懇願する時の必死さに「なんだ、135年かけて精製された綺麗なジキルか…」とか思ってしまったりしたので、すっかり騙されました。(※褒めてます)
本性が最高にクズでした(※褒めてます)
本当にありがとうございます…!!

とにかく本性を晒した時のテンションが高い。それを顧みると、エンディング前までの本性がちらつく感じがあった気がして、もう一回観たいと思うジキルNo.1でした。
「傑作だ!」と叫ぶシーンが最高に狂ってて大好き。他のジキルとも比べてみたけど最後のクズみ(※褒めてます)は断トツ1番。

ジキルおじさんのキャラクター性は「事件に巻き込まれて可哀想に…」からの「えー…うそだろクズじゃん…」とすら思ってしまう外面と本性のギャップ。
友人の言葉を借りるに、「読んだ人をエーミールに変える男」。そうか、つまり君はそういう奴だったんだな。

そう言う次第なので、「そうだよこういうやつなんだよ知ってたよ!!ww」と、後から思い返すと拍手が止まらないのです。好き!

2回目&3回目/大崎捺希さん

舞台で二回観ているということもありますが、その後かなりの愛着を持っている事がわかりました…
とにかく、可愛い。
精製された綺麗なジキルならまだしも、まさか原作ベースのジキルに可愛いと思わされるとは思わなかった
(135年かけて精製された綺麗なジキルには思ったことはある)
性癖に刺さったのかもしれない。

序盤は清純で弱々しげで、悲劇の主人公面しているくせに本性は静かに狂っているというか、あえていうなら「薬物中毒のジキル(原作からしてヤク厨だけど)」というイメージ。
本性を出した時、自分に心酔している系のマッドサイエンティストという印象を受けました。
謙虚なふりして自分の才能に自惚れている。

元々私が儚げで幸の薄いキャラクターが好きなのもあって性癖に刺さったんでしょうね。
マッドサイエンティストが性癖だとは思ってないけど、全くなかったら19世紀SF文学なんて推してないですよね…。

「これでいいんだ、アターソン」とか「子供の頃にそう言い聞かされてきたが、嘘であった」とか、哀しげに言うのが本当に性癖に刺さる。
とはいえ、やっぱりエンディングに近づくと本性が出ちゃうのでどんなに可愛くてもやっぱりジキルなんだなーってところが最高に好きですね!

4回目/樋口裕太さん

自信満々だけどそれをなるべく隠そうとしているジキル、という印象。原作の文章を思い出してしまうんですよね。
洗練されてて、見るからに自信と才能に溢れてて、社交的。
文で書くのは簡単だけど態度で示すの難しくない?難しいですよね。

ジキルおじさんは異常な程自分の評判を気にする性格ですが、自分では「偽善者ではなかった」と言っていて「本当かぁ〜?」と思うのですが、その根拠となる記述の一つがこれ。
ハイドとして大暴れした挙句、ダンヴァース・カルー卿を殺害した償いのつもりで善行を積んでいるはずなのにこんなこと言うんです。

結局、私は自分が隣人たちと同じなのだと考えた。それから、自分を他の人々と比べ、自分が慈善をして活動していることと、他人が冷酷に無頓着でなまけていることを比べて、微笑した。

そうか、つまり君は(以下略)
なので、周囲には出さないようにしてるけど傲慢さはかなり持っていると思う。
本性はやや周囲を小馬鹿にしているイメージ。
いいですね、ジキルの本性はそうでないと!\(^o^)/

ラニョン君、君は自分の誓ったことを覚えているでしょうな。これからのことは我々の職業上秘密を守るべきことなのです。さあ、君は永いあいだ実にかた意地な唯物的な見方にとらわれてきたが、そして霊妙な薬の効能を否定して、自分の目上の者たちを嘲笑してきたが、――これを見給え!」

これはハイドがラニヨン博士へ言い放った言葉ですが、恐らくはジキルおじさんの本音。
やっぱり私は、ジキルは周囲を見下す傲慢さも持ってると思います!
原作の描写にかなり近いと思うなぁ。好き!

エドワード・ハイド

ジキルのもう一つの姿。

不気味で、ハスキーボイスでたどたどしく喋る、ドワーフのように小さな体格の若者。私は「悪役のくせに悪事のスケールが小さくストレスキャパも小さいので色々とちっちゃくて可愛い」と思っている。
原作読むまでシリアルキラーだと思い込んでたけど全然そんなんじゃなかった。衝動的なタイプで、警察にも怯えている。
警察に怯えるようじゃ大物には(以下略)

初回・3回目/桑野晃輔さん

このハイドちゃんはとにかくやんちゃ可愛い。
歩き方はズカズカ、といった感じでちょっと不良かチンピラっぽい。
アターソンに慰謝料の交渉をされた時も少し食い気味な所も可愛いです。

正体がバレないことに自信があるのか、名乗る時もちょっと悪役っぽく自信満々に言ってるのが可愛いですよね。

ハイドちゃんの(実年齢はアラフィフのくせに)何処となく子供っぽい所を体現したらこうなるんだろうなぁという印象です。
元に戻れなくなって絶望した時が泣きじゃくる子供のようでひたすらに可愛い。実際、原作では結構泣いているので凄く良いです。
絶望に落ちる時の様子が本当好き。永久保存したい
初めて見たのが彼だったので皆同じかと思ったのですが、この絶望に落ちる姿もそれぞれ皆印象が違うんですよね。
個人的には彼が一番好みです!

また、三回目の鑑賞中に杖でダンヴァーズ・カルー卿を殴り倒した時に折れた杖が落ちないというハプニングがありましたが、ぶらんと垂れ下がった杖の端をむしり取って紙くずでも投げる様に机の上にぽーんと投げ捨てる仕草をしたのが「あっ凄く良い…」と思ってしまって。
演技に影響が起きないように瞬時に自然な反応で対応できるのもすごいけれど、これはハプニングだから再現不可能…すごく良かったのに。
なるほど、観劇勢が何度も劇場に足を運ぶ理由が分かった。

あと、舞台挨拶の時に観客の健康を気遣ってくれるギャップが可愛くてきゅんとしました笑
可愛らしい方だ……。

2回目/樋口裕太さん

彼だけ一回しか見ていないハイドちゃんなのでもう一回観て比べたいです。
二回目と三回目は連続で観ているので比べられますが、桑野さんのハイドに比べて大人で落ち着いた印象。
そして、「あっ歩き方が違う!」と思った。歩き方は大股でずんずん、という印象。

どちらかというと、ジキルの育ちの良さが透けてる感じ。
かと思えば、暴れるシーンはそれこそ飛び跳ねるような勢いで「猿のように」暴れる。

樋口さんのジキルは傲慢で堂々としていたから、きっとハイスペック紳士故の自信過剰さがハイドになっても出ちゃってるんでしょうねぇ…凄く良い。
ただ、多分樋口さんがジキルと二役やってるからだと思いますが、名乗る時も桑野さんハイドより控えめ。奥ゆかしさすら感じるし大人の印象。

考えてみれば、リチャード・エンフィールドの役割がアターソンに移行したことで第二節がなくなりましたから、少しズレがあるんですよね。
原作だと少女の事件に介入してハイドの名前を直接聞いたのはエンフィールド。アタスンおじ様はエンフィールドから聞いたので、ハイドちゃんからは直接聞いていない。
なので第二節でハイドちゃんはアタスンおじ様が名前を知っている事に戸惑い、「どうしてあなたはわたしをご存じだったのです?」とすら聞いている。

だから考えてみればジキルの遺言状でハイドの名前を知っているはずのアターソンに、ハイド(ジキル)が自信満々に「エドワード・ハイド」と名乗ること自体が状況的には少し不自然なので、少し躊躇うように答える方が私の解釈に合うのですよ。だってあれだけアターソンが少女の事件に介入したからには、アターソンが遺言状の受取人と同一人物だとわかればそれを不審に思わないわけがないから。
まぁそういう爪の甘さもジキルおじさんの持ち味な気がするのですが(笑)

そういうわけで、原作の文面そのままだしたらこうなりそうな気がする、というハイドちゃん。
なるほど、樋口さんジキルと対になってると言われたら頷ける。
しかしびっくりしたのは、身長ですね。小柄に見えたのですが、それは姿勢が悪いからでピンと立つとジキル(その時のペアは大崎さんジキル)よりでかい。
ちょっとドキッとしました笑

4回目/梅津瑞樹さん

いつも目を見開いていて表情が読みにくい…何を考えているのかわからない危険な感じを受けました。同時に精神的な危うさも感じる。
歩き方はふんぞりかえっているようなのけぞるような感じで歩く。…まさか歩き方まで全員違うとはね!

このハイドちゃんは「大胆かつ臆病」という原作の描写が蘇ってくるよう。
ややびくついたような仕草が折々に見られるのが面白い。

しかも、あいつはその真ん中に突っ立って、むっとした、せせら笑うような冷ややかな態度をして、――びくついてもいることは僕にはわかったが、――しかし、ねえ、全くサタンのように平気で押し通しているんですよ。

正直なところ、その場にいたら1番関わりたくないのはこのハイドちゃん。
ただ粗暴な感じがするというのではなく、無表情のままナイフぱっと出してそのまま刺してきそうで怖い笑
なるほど、そういう悪役か…!

でもジキルが本性を見せた時、物凄くドン引きした顔するんですよね。可愛くなってしまうくらい笑
ジキルの時もギャップが凄かったので、本当、この俳優さんその辺りのギャップが凄い。

また、あと彼が名乗る時ちょっと躊躇して見えるのも解釈の一致。

それにしても、樋口さんと梅津さんのペアは本当に息がぴったりで、お二方とも二役演じたからなんでしょうか。
逆のパターン(梅津さんジキル&樋口さんハイド)も観て見たかった、と凄く悔しく思います。

ゲイブリエル・ジョン・アターソン

後継者くんの言葉を借りれば、仏頂面だけど情に厚い良い人でお人好しな弁護士。
ジキルの親友。

今作の良心だと私は信じてやまない。
こんなに良い人なのにどうしてジキルおじさんは()

初回・4回目/塩田康平さん

誠実で厳格で、クールなアターソン。
2人のうちどっちが原作のイメージに近い?と聞かれたら、こちらと答えると思います。

弁護士のアッタスン氏は、いかつい顔をした男で、微笑なぞ決して浮かべたことがなかった。話をする時は冷ややかで、口数も少なく、話下手だった。感情はあまり外に出さなかった。やせていて、背が高く、そっけなくて、陰気だが、それでいて何となく人好きのするところがあった。

原作の文面を借りるなら、このイメージがそのまま出てきたような感じです。
ジキルとは親密ながら少し距離感をわきまえているところが、大人の男性同士の友情って感じがして良い。
振る舞いもピシっとしてて、凄くかっこよくて大好きです。

2回目・3回目/碕理人さん

優しくて、正義感の強いアターソン。
アタスンおじ様の情に厚い面が前面に出ている感じがかなり好感度高い!
アタスンおじ様にしては少し熱すぎないか?と思われる部分もありますが、彼の正義感の強いところが表に出てるみたいでこれはこれでとても良いですね!

しかし他人にはえらく寛大で、人が元気にまかせて遊びまわるのを、さも羨ましげに、驚嘆することもあった。そして、彼らがどんな窮境に陥っている場合でも、とがめるよりは助けることを好んだ。「わたしはカインの主義(=知っていて知らぬ振りをすること)が好きだよ、」と、彼はよくこんな妙な言い方をするのだった。「兄弟が自分勝手に落ちぶれてゆくのを見ているだけさ。」こんな工合だから、堕落してゆく人たちには最後まで立派な知人となり、最後までよい感化を与える者となるような立場にたつことは、よくあった。そして、そういう人々に対しても、彼らが彼の事務所へ出入りしている限り、ちっともその態度を変えなかった。

原作の文面を借りるなら、このイメージのアターソン。
私が観た回はどちらも大崎さんとのペアでしたが、本当に仲が良さそうでそれがとてもいいです。
第三節(DR. JEKYLL WAS QUITE AT EASE)相当シーンの後の、抱き合って友情を確かめるシーンで、ポンポンと背中をたたき合うのが「凄い仲いいんだなーーー」という感じが出てて最高です。
きゅんとしてしまう…

後継者

事件の被害者ダンヴァーズ・カルー卿の隠し子という設定の、物語の外側から読者の視点を担う人。

初回・2回目・4回目/東拓海さん

初回が彼だったので、後継者くんはこういう人なんだ、と思っていましたが…
もう一人と見比べて「違う~!この人は単純にアドリブが凄くうまいタイプの人だ!」という衝撃を受けたのでした。

導入の自分と自問自答をするシーンで、分身が出てくるのですが……

初回の冒頭は理性の飛んでいる分身。
2回目の冒頭は無邪気な子供のような分身。
4回目の時の時はダンス好きのオネエさんのような分身。

しかも閉幕後のトークの時に「お前いつも最初遊んでただろ」とか「稽古の時から毎回違う」というツッコミがあったので本当にアドリブでした…笑
凄いお人だ……いや、このシーンにはいったいどういう意味があるんだろうって真剣に考えこんじゃったんですけどね…笑

でも「自分の別側面と対峙する」という意味では導入なのかもしれないです。

また、読者というよりは考察者。
彼は台詞に強い感情がこもっている感じを受けるので、物語にどんどん切り込んでいく印象です。
「善人には善人の友人が相応しいと僕は思う」とか。
(これ、初回は何の指摘なのかわからなかったけど、ジキルとアターソンではなくジキルとハイドの友人関係の事を指してるんですね…原作でジキルの本性を知っていたせいで認識がずれてしまった(笑))

考察シーンの切り込み方が好きです。いいぞ、もっとやれ!!
また、彼の時は最後に一人で取り残された後に自分の選択を迫られて本をめくるんですよね。
追い詰められた感じがたまらないです。でも物語には続きがない。自分で選択しなければならないのです…。

3回目/後藤恭路さん

恐らく、彼が本来の後継者くん
大人しくて、物語の外から事件を眺めている観客と同じ目線の「読者」。

後継者くんが少し色あせた印象の落ち着いた衣装を着ているのは恐らく物語に直接介入することのない存在だから。
そう意味では、彼のキャラが立ち過ぎない方がいいのかもしれない。

しかし、この演劇を教えてくれた文学沼の知人との後継者くんの印象の違いがアドリブによるものだったとは思いもしませんでしたね(笑)
後藤さんの後継者くんは純朴で、物語に寄りそう読者の立ち位置でよかったと思います。
共感もしやすいですし、可愛い。

考察も静かに切り込んでいくところがリアルです。
どちらが良いのかは好みの問題かもしれませんね。

その他思った事

何度も観て思ったのですが、ジキルを演じるの普通に難易度高くないだろうか!?
普段から「良い人」を演じている上に、本音・本性、ハイドとの関係など、隠し事の多いキャラクター。
そして、曝け出した本性とのギャップが面白いキャラクターでもあるのでその差が大きくないと面白くない。
かもたまに本性が見え隠れするのが面白かったりもする。例えば「僕の評判が危険に晒されるのではないか…」とか、いちいち気を使う所、心配する所が常人とズレてるなど。

私はややジキルおじさんを「人の心がわからないので理屈上の善悪しかわからないが、その賢さ故にうまく社会に溶け込んでいる系サイコパス」だと思っている節があるので、いやそれ滅茶苦茶難しいよ、と思うのです。(※補足すると、サイコパス=犯罪者ではなく、生まれつき共感力が著しく低い人の事を言うようです)

本音と表に見せてる顔が全然違う人(二重人格、二面性がある、裏表あり過ぎ、外面がいい、腹黒…お好きな言葉でどうぞ)というだけで演じるの大変そうなんですが、誰一人として解釈違いにはならなかったのが凄すぎる。

…と、こんな風に書くと私がジキル推しみたいに見えそうなんですけど、私はジキルおじさんとアタスンおじ様のブロマンス推しです(笑)
単体ならハイドちゃんが好きです。色々ちっちゃくて可愛い。


それから…プールさんの完成度が高い
プールさんはジキル邸の執事ですが、名前が出てこなくても「あっプールさん…!」と思ってしまうほどの完成度。
具現師さんとおっしゃるのか、4名の助演俳優さんも凄いんですよね……。

何度も観て思った事

ここからは何度も観ているうちに思ったことを書きたいと思います。

もう一人の信用できない語り手

信用できない語り手。
故意にしろ無意識にしろ、読者にミスリードを誘う語り手の事。

ジキルおじさんは告白文において事情を説明しているように見えてよく見ると矛盾だらけ。そういう事実なのかわからない事をよく言うので信用できない語り手だと思います。
これは後継者くんが論破しているので脚本家さんもそう捉えているのだと思います。

その一方で、今回の朗読劇だとアターソンも語り手側なんですよね。そして、その人の良さ故に観客にミスリードをしまっている。

アターソンの見た夢が舞台の上に具現化されて登場すること、また恐らくジキルとハイドが絡み合ってお互いの台本を読ませるシーンは、アターソンが「ジキルはハイドに脅迫されている」「ジキルの不審な態度の裏にハイドの陰が見える」というフィルターで見てしまっている事なのだろうと思います。
結論、この舞台上ではジキルが悪くてハイドは従属しているだけなのでジキルが被害者に見えるのはミスリードなわけで。

そしてアターソンは最終的にジキルへの友情故に彼の告白を鵜呑みにするという結論を出してしまった。
原作を読んでいない人からすると、このミスリードによって告白を聞いてもジキルは善だと信じ切っていたのではないでしょうかね?

私は原作勢なのでジキルが黒幕なのは知っていたのでわからなかったし、ずっと「解釈違いがありませんように!」と祈るのに気を取られていたものだからわからないのですが、原作未読勢的にはどう思ったのか興味があるところです…。

後継者くんという立場

それにしても、後継者くんという立場。
ジキルの告白文の矛盾点に初回で気づくところが偉い。私は違和感がありつつも初回は「??……これは、可哀想な話、なのか???」と思ってしまいました。

ジキルおじさんは自分擁護が凄いので、ただ普通に読んでいるだけだと最初の後継者くんみたいな反応になっちゃいます。
つまり「これは難しい問題だ…誰の中にも善と悪の面がある」と、そっちに流れてしまう。
アターソンもジキルを善だと信じていたからなのかそっちに流れている。
最も、ジキルおじさんの語る告白を真実だと思うのも一つの感想なので、どれが正解でもないのですが。

私が原作を読んで「そうか、つまり君はそういう奴だったんだな。つまりクz(以下略)」って思うようになったのは原作を2~3周してからの話。
なので後継者くんの存在は、その違和感に気づくまでの時間を短縮しているだけでなく、私が体験した感覚を再現してくれているのです。

多分後継者くんがいなかったら、「これって…つまりどういうこと?」という考察大会に発展しない限り、ジキルの告白を「これは難しい問題だ…」と受け入れてしまいそうです。
だから、後継者くん、いいぞ!もっとやれ!

後継者くんの考察が真実とも限らない

アターソンが信頼できない語り手であり、後継者くんがそれに騙されかけたのを顧みると、後継者くんの考察も全てが真実とは言えないですよね。
そもそも後継者くんは物語の外側にいる読者の代弁者であるため、後継者くんの考察も結局のところ彼と言うキャラクターの想像の産物でしかないわけです。

後継者くんの考察は箇条書きにするとこんな感じ。

前提:ジキルの本質が善であったならハイドは天使のような存在として生まれるはずだった
①理性を失ってダンヴァーズ・カルー卿を殺したのはどっち?→「善人が究極の勝利を得たなどという例は聞いたことがない!」と叫んだのはジキル
②あえてジキルが告白文を残したのは何故?→ジキルが誰かに実験の成功を知って欲しかったから
③暴走したジキルをハイドが止めることができたのではないか?→ジキルを止める為にハイドが毒薬を飲んだから死体はハイドだった
④そもそもきっかけを作ったのは誰?→薬を作り、飲み続けたのはジキルの意思
結論:ジキルの本質は悪である
⑤最後の薬を残したのは→ハイドがジキルを欺いて隠していた?

という事なんですが…後継者くんが『ジキル博士とハイド氏』の物語に対する一読者としての仕事(考察)を果たしているというわけで、後継者くんを含めた朗読劇全体を更に考察するのは私たち観客の仕事ですね。

私は前提と、①と②と④、結論は同意見です。
でも③は違って、⑤は逆だと思っています。

前提として、ハイドのハイドとしての自由意思がどれだけあったのかという点について話し合わないと難しいのですが、私は「ほとんどなかった」と思ってます。
多分この辺りは第10節(HENRY JEKYLL’S FULL STATEMENT OF THE CASE)のジキルの遺書(告白文)をどう解釈するかによるかと思いますね。
ジキルおじさんは自分を擁護している面がある為、本当に本当の事を言っているのか定かではない「信頼できない語り手」だと思うから、そのまま鵜呑みにするとハイドには自由意思が明確にあったように感じるけれど、彼の行動を彼だけの自由意思として考えるのは不自然だと私は感じます。
なので私は「ほとんどないか、むしろハイドになると出力が変わるだけでジキルしか存在しない」と思っています。

そうなると③は不可能になり、毒薬を飲んだのはジキルという事になります。
ジキルが恐らくハイドから二度と元に戻れない、もしくは少量程度の薬を飲んだところでまたハイドに戻ってしまう事は自覚をしているところなのであの土壇場で元に戻る薬を飲んでもあまり意味がない。また、むしろアターソンと執事が見ている前でハイドからジキルに戻る、もしくはジキルからハイドに戻ってしまう事の方が避けなくてはならない事態だと思う。
そう考えると、ジキルが最後の薬を選ぶ理由も薄くなる。
じゃあ何故毒薬を飲んだか、は原作にも書いていませんが私は「その先に待っているであろう未来に絶望したから」だと思っています。
前提として、ハイドとして見つかればどのみち絞首刑。
そんな最中にアターソンの声に反応して「アターソン!後生だからやめてくれ!」と叫んだ途端、アターソンが「あれはジキルの声じゃない!ハイドの声だ!」と叫んでいるから、唯一無二の親友にすらもう自分とは認識してもらえなかった、という事で絶望する材料としては十分じゃないかなと。
アターソンの手で絞首台に送られるのも嫌でしょうしね。

そして⑤。
私は薬を残したのはジキルだと思っている。
③を踏まえなくても、ジキルの台詞が「まだ実験は終わっていない!」ですし、最後のエピローグのように流れる台詞がジキルのものだから。
原作では以下のものになります。

ハイドは処刑台上で死ぬだろうか? それとも最後の瞬間になって逃れるだけの勇気があるだろうか? それは神さまだけがご存じである。私はどちらでもかまわない。これが私の臨終の時なのだ。そしてこれから先におこることは私以外の者に関することなのだ。だから、ここで私がペンをおいてこの告白を封緘しようとするとき、私はあの不幸なヘンリー・ジーキルの生涯を終らせるのである。

これが舞台では後継者くんにあてられたものになりますけれど、だとするなら余計にこの薬を残すことで手に入れた者がどんな選択を迫られるのか知っていたと読める。
いやー、だとするならこの人どこまでクズなんだ(※褒めてます)

上記のこれも私という第三者の考察にすぎませんから、私が語ることが真実というわけでもありません。
考察するのは読者・観客の仕事ですから(*'ω'*)


とはいえ……クズクズ言ってますけれど、①を思うと少し哀れにも感じはします。
「善人が究極の勝利を得たなどという例は聞いたことがない!」ですが、もしも「ジキルの本来の本質は悪寄りであり、無理して善人ぶって生活している」という風に書いたとしたら…
無理して我慢して、善人ぶって生活して得た名声でもそれだけでは人生に満足できなかったジキおじが、本当の善人を見て嫉妬と憎悪を抱いてしまうなんて、やっぱり少し可哀想。
…いや、これは私がジキルおじさんにほだされてますかね?(笑)

閉幕後トーク

閉幕後に会場案内の準備中の放送が流れますが、あれ楽しいですね…(笑)
個人的にはそれぞれのキャラクターを演じた俳優さんがわちゃわちゃと原作の話をしてくれるのが嬉しくて楽しくて。

全部のパターンが聞けるなら聞いてみたい…と思うのです。
誰かどんなパターンがあったのか教えてくれはしないだろうか……(とは思う)

しかしせっかく文学沼の原作勢なので、このブログには話の内容のうち、原作に抵触する部分だけ書き残しておこうと思います。

初回の時は「ハイドとジキルの名前の由来って?」という話。
二回目の時は「ジキル邸の執事の名前」
三回目の時は「原作『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』の書かれた背景」と夢に関する話。
四回目(アーカイブ)の時は「後継者くんのアドリブ」の話。

「ハイドとジキルの名前の由来」、結局ジキルの由来については回答がなかったんですが、光文社古典新訳文庫の解説に少し言及がありますがそれも「こういう説があるけど深読みで、それが名前の由来ではないよ」という内容なんですよね。それ以外に「知人の名前」っていう説をどこかで読んだのですが、ちょっと今どこで読んだのか思い出せないです…。
ハイド(Hyde)の名前が「隠れる(hide)」の意味から来てるのはトークでもあった通りすぐわかるのですが、これについては原作で大好きな台詞があるので引用しておきます。
第二節、アタスンおじ様がエンフィールドから聞いたハイドの顔を直接見たいと思って待ち伏せしている時の台詞。

“If he be Mr. Hyde,” he had thought, “I shall be Mr. Seek.”

「彼がハイド氏なら、己はシーク氏になってやろう」と彼は考えていた。

勿論、Hide and seek(かくれんぼ)の洒落です。アタスンおじ様カッコいい…!

ジキル邸の執事の名前は原作を見れば一目瞭然ですよね。プールです。
そういえばアターソンの筆跡鑑定が得意な秘書の名前がスコットになってましたが、原作ではゲストです。ファミリーネームがゲストなんだろうか…?

今作が書かれた背景(悪夢)については「イギリス文学を旅する60章」やパスティーシュの「ハイド氏の奇妙な犯罪」についている作者の論文で紹介されているのを読んだことが。
(※パスティーシュ、というのは出版されている二次創作の事)

興味がある方はどうぞ(*'ω'*)

でも「ジキル邸の執事の名前」の時、「実はうちの執事の名前が変わっていてね」って台詞で喋るのが「ウッ…!好き…!!!」と思いました。
原作の設定で喋ってる……好き…()

……私やっぱりクズクズ言ってる割にジキルのことが結構好きなのか?
認めたくないなー…、でも大崎さんのジキルを可愛いって思っちゃったしなぁ……笑

足りない、もっとくれ()

しかし、今作は種明かしされた時のカタルシスがすごく良いですね…
ジキルのクズっぷり(※褒めてます)が視覚的に見えるのがそれを助長してるような気がしますが…

原作では見ることのできない部分でもあるので満たされ感が凄いです。

そして朗読演劇という形なのが本当に良い。
文学沼にいる人全てがそうだとは限らないのですが、私と、一緒にアーカイブを見てくれたもう1人の文学沼の人は原作の一文が読み上げられるだけでテンションが上がってしまう。
原作の引用がされているだけで気持ちが高まる。
台詞どころか、ちょっと字の文を朗読しただけで、「きゃー!ハイドちゃん可愛い!!!」と大騒ぎして、ます。
地の分も大好きなんです。

そんな私に、原作の引用が散々にされているこんな朗読演劇を見せられたら、それは興奮しないわけがなかったのです。

そういう理屈を抜きにしても、例えば「有名な博士の姿を即座に脱ぎ捨てて、分厚い外套のように別人の皮を被ることができる」「何をしでかそうと罪があるのはハイドであり、ジキルの評判には傷一つつかない」(※うろ覚え)なんてことをドヤ顔で言うものだから、二回目以降は「あまりのクズっぷり(※褒めてます)ついつい笑いそうになってしまうのを必死で堪えていました。
でもここでなら言える。
「草wwww自覚あるじゃんwww確信犯じゃんwwww」と。

暴漢を雇ってそれに自分の罪悪を行なわせ、自分の身体や名声は安全にかばった人たちがこれまでにはあった。ところが、自分の遊楽のためにそんなことをしたのはこれまでには私が初めてであったのだ。快い名望の重荷を負うて、社会の中でこんなにせっせと働きながら、たちまち小学生のように、そんな借り物を脱ぎすてて、自由の海へまっさかさまに跳びこむことのできたのは、私が初めてであったのだ。しかも私は、あの見通しのできないマントを着ているので、その安全は完全なものであった。そのことを考えてみ給え、――私という人間は存在しもしないのだ! 私はただ自分の実験室の戸口の中へ逃げ込んで、いつでも用意してある薬を調合してのみ下すのに、ほんの一秒か二秒をかけさえすれば、彼が何をしてこようと、エドワード・ハイドは鏡に吹きかけた息の曇りのように消えてしまうのだ。そして彼のかわりに、ヘンリー・ジーキルが、嫌疑を笑うことのできる人間として、静かにくつろいで、研究室で真夜中の灯火をかき立てているのだ。

アーカイブを同時視聴していた時は、「ハイドの事なんて気にしちゃいない、ただ僕は自分の評判がいくらか危険に晒されるのではないかと心配していたのだ」…という台詞が来た瞬間、「キターーー!!」と叫び、「(この台詞があることによってキャラクター性が原作から変わっていないことを再確認したことは)実家に帰った時のような安心感」などと言って喜び合ったり。

でも、今回の体験って本当に幸せな事なんだなって。
泣いてしまいそうなくらい。
こんな体験をするとは思わなかったです。

最後に

気づいたら5回も観てしまったわけですが、この幸せの感謝を何か行動に移したくて。
世間のこんな状況を考えると、劇団の為に何かお布施をしたいと考えました。
ということは、何かグッズを通販するのが良いのかなと思い至ったわけです。

DVDの予約とパンフレットは会場で買ってしまったので、もうそれ以外だとブロマイドしかないのですが、このままだとほぼ全種類買ってしまいそう…。
まだどれくらい買うのかは決めかねているのですが、本当にほぼ全種類買ってしまったとしてもそれはそれでいい気がします。
こんな幸せな時間をもらえるとは思っていなかったので。
もしもブロマイドの良い保管方法とかファイリングアイテムとかあったら教えてくださいね(*'ω'*)

正直なところ、この朗読劇シリーズで「フランケンシュタインやります!」とかウェルズとかカフカとか…そのあたりをされたら、きっとまた今回みたいに踊り狂う事になるかもしれない。原作リスペクトを感じられる作品はそれだけで尊いのです。

そして……
私は観劇初心者故に色々と不手際があって。
本番と間違えてトークショーのチケット買ったり、出演者の一覧表(全部一緒)しか見つけられなくて「その日のキャストがわからん…」と頭を悩ませてみたり……。
各回の出演者のリストの画像を見せてくださったり、アーカイブの事を教えてくださったりと、観劇勢の方が優しくしてくださったのがとてもありがたかったです。
本当にありがとうございました。

私はまた文学沼に戻りますが、またそちらの世界にお邪魔することもあるかもありません。
その時は、またどうかよろしくお願いいたします。

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