海に浮かぶ月のはしっこ

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【映画】シネマコンサート『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』を体験してタイムカプセルを感じる。

2019年の年末に開催された『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』のシネマコンサート。シネマコンサートというジャンルも初めての体験だったので、ぼちぼち感想書こうかなと思います。

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今日のサムネイルは"マッドサイエンティストの祖"のハリポタパロ。ジキル(ショタ)だけスリザリンなのはお察しください。

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ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』の思い出

行く事になったきっかけというのも、たまたまTwitterのTLでPRを見かけたからなんですが、こういうものをやっているという事自体初めて知りました。今回は三作目なので三年目という事になるのですが…今までやってたの全然知りませんでしたね(;^^)

2018年はどうやら『ハリー・ポッターと賢者の石』の翻訳版発売20周年だという事で各地でちょっとしたイベントが開かれていて、私も1~2回ほど参戦したのですが………20年!?そんなに!?とおばちゃんみたいなことを言い始める年齢になってしまった事に気づいて、ちょっと寂しく思いました(;^^)

ハリー・ポッターと賢者の石 (1)

ハリー・ポッターと賢者の石 (1)

  • 作者:J.K.ローリング
  • 出版社/メーカー: 静山社
  • 発売日: 1999/12/01
  • メディア: ハードカバー

リアルタイムに翻訳を追いかけ、ちょうど翻訳のハリーと同じ年齢で読んでいたというのに、もう20年ですか……あぁ……()


シリーズの中でも一番好きだったのは三作目『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』。お話の展開的にまだそこまでシリアスな空気が漂っておらず魔法の世界を満喫でき、今作の中で起こる不可思議な現象の理由や謎が解ける時に爽快感がある。そして何より、私の最推しのキャラクターの出番が非常に多い!というのが理由となるでしょう。

今作は公開当時16歳だった私が、高校で初めて出来た友人と観に行った映画でもあります。その友人っていうのが、今回付き合ってくれた友人で……もう16年の付き合いになります。時間の流れって怖い…(>_<)
高校でいつも一緒につるんでいた4人組の中で、一番私と喧嘩を繰り返した彼女だけが現在に至ってもまだ親しい友人関係を続けている、というのが不思議ではありますが、友人関係というのはそういうものなのかもしれません。

青春ってやつですなぁ。

ついつい、タイムカプセル的に色々な思い出も出てきてしまうのがハリーポッターシリーズです。

シネマコンサートというジャンル

シネマコンサートというもの自体が初めての世界だったのですが、映画を上映している下でオーケストラがBGMを生演奏する…というもの。
映画『オペラ座の怪人』で舞台の下でオーケストラが演奏しているシーンが映っていましたがあんな感じに近い。

私が申し込んだのがチケット販売から一か月後だったこともあり、席は二階席で随分遠く感じました。
生演奏は自然にマッチしていて、度々映画に集中し過ぎて生演奏だという事を忘れてしまう…前の方の一階席だったらオーケストラの空気感を感じられてさぞかし大迫力だったのだろうと惜しく思いましたが、面白い体験をしたなと思いました(*'ω'*)

最初の指揮者の方からの挨拶にもありましたが、劇中で歓声を上げたり拍手をしたりすることはむしろ推奨されるという空間。こういう映画鑑賞も初めてですね。まるでショーを観ているみたい。
「日本人はシャイなのでなかなかそういうことしないんですけど、あの女の子が例の意地悪なあいつにパンチを食らわせるシーンなどは、ブーイング飛ばしてもいいんですよ!(*^▽^*)」とのことでしたが、ブーイングはなかったけどこういうシーンでは拍手喝采でした。BGMが良い迫力で終わった時も拍手が上がるけど、それは演奏者さんたちへの賛美。
この和やかさもなかなか楽しい体験でした。

服装に関しては全然ドレスコードなどもありませんでしたが、中に入るとたまーにローブを羽織ったお姉さんにもすれ違う。でも思ったより多くない、という印象です。
とはいえ、私も友人と示し合わせて寮指定マフラー持って行ったんですけどね(*'ω'*)<寒かったし!

グッズ販売とかはあるようでないような感じで、英語のパンフレットとマフラーとTシャツだけという感じでしょうか。
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このパンフレットがなかなか豪華なんですけどね箔押し……!?
内側も透かし紙に金の箔押し印刷がされていて高級感があります。

楽しかった!(*'ω'*)
ちなみに東京駅の地下にはハリーポッターの特設ショップがあったらしいですが、階段の上まで入場制限がかかっていて諦めました(;^ω^)

感想について

もう15年以上前の映画なので、ネタバレもいいでしょうかね(*'ω'*)
原作共に大好きな作品なので書かせていただきます。

ハリー・ポッターとアズカバンの囚人 (字幕版)

ハリー・ポッターとアズカバンの囚人 (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
ハリー・ポッターとアズカバンの囚人 (3)

ハリー・ポッターとアズカバンの囚人 (3)

  • 作者:J.K.ローリング
  • 出版社/メーカー: 静山社
  • 発売日: 2001/07
  • メディア: ハードカバー

なお、私は展開が辛すぎて原作最終巻を読み終える事が出来なかった勢なのでご容赦願います。

子供の私の「大人って汚い」、大人の私の「大人って汚い」

率直に全体の感想として…。
原作を読んだ当時はハリー達と同じ年齢で、映画を観た当時は+3歳くらいだったともいますが、当時は原作読んでも映画を観ても「大人って汚いな~、大人ってクソだな~」と思ったんですが………今でも「大人って汚いなー」って思いました()

「大人って汚いなー」って、中学生くらいの年頃の少年少女の抱えている苦悩そのものでもあると思います。大人になったら少しはこの感覚もマシになるのかなと思っていましたが、いい年の大人になった今でもやっぱり「大人って汚いなー」って思います。

少年たちは、大人の作ったルールの中でもがきながら「そんなの正しくない!」と叫ぶ自由があると思うのです。大人になると、少年時代のように自由ではいられません。建前とか、地位とか、そういうものもたくさん出てくる。
とはいえ、私が少女だった頃は日本の学校教育がそうさせるのか、親がそうさせたのか、ハリー達のように心も自由ではいられなかったような気がします。もっと反抗すれば良かったと思いながらも、もやもやとした気持ちで大人になってしまったのは残念な事です。

前述の通り、大人になると建前とか、色々な理由から「自分は常識人だ」というしがらみに囚われて物事の本質に気づけなくなったりする。本当は、それが良くない事なら「良くない」って言わなくちゃいけない事もたくさんあるのだけれど…気づけなかったり、それが当たり前のように感じてしまったりするのです。

ルーピン先生(私の一番好きなキャラクターであり、ハリーの恩師)が後天性の人狼体質持ちという事が世間に露見した時、彼は学校に迷惑をかけられないからと言って騒ぎになる前に自ら教壇を去ってしまいますが…。映画ではその理由として「明日の朝には親たちからのフクロウ便がたくさん届くだろう。私のようなものは教師に相応しくない、とね。」というようなことを言っています。

子供の頃は原作のハリーみたいに酷く憤りました。先生の人間性を高く評価していた私としては、「恩人である校長に気を使っているのだろうけれど、彼の人間性を理解すれば誰もが体質の事なんて許容してくれるはず。現に一年間何にも問題は起きていない!」と納得できなくて仕方がなかったのです。
大人は汚い、建前と自分の保身と都合ばっかりで正しい事は何かわかっているはずなのにわかろうとしない。それが当時の私の怒り。


ハリー達より当の先生との方が年齢が近くなってしまった今、多分私も先生の立場なら退職願を会社に出すかな、と思います。
どちらかと言えば「自分の身を守るために」
まぁ、現に今仕事辞めたしね!(;^_^)


先生は人間でありながら感染によって凶暴な獣に変身する病を患っているわけですが…薬で抑えていても噛みつけば感染するので差別の対象にされます。
本人は努めて明るく振舞っているものの、この病のせいで一番精神的に参っているのは本人だという事は想像に難くない。その証拠として「ボガート(真似妖怪)が変じた、彼の一番怖いものの幻覚が"満月"だった」ということが今作だけでもわかります。

性別、出身地、喋り方、髪の色、体型、勉強できるとかできないとか……
学校でも会社でも、差別による虐めは非常に多い。前職では女性の立場が低かったですし、何かあるごとに「これだから女は」などと言われたらそりゃ精神に異常をきたします。前職で虐めの対象になってしまった女性はどう考えても「とばっちり」としか思えなかったのですが、八つ当たりで怒鳴られている声を近くで聞いている私も心が痛くて辛くてたまらなかった。
それは虐められている側が考え方を変える(=気にしない、無視する)だけではどうしようもない事。そもそも、虐めている方が圧倒的に悪である。「虐められている方に原因がある」とドヤ顔で語る反吐が出るほど汚い大人もいるのですが…自分の行為を正当化しているだけで正しい行為かどうかは別問題。
もし虐めの対象になってしまったら…どんなに条件的に恵まれた環境だったとしても、心を壊す前に立ち去るのが社会人なのだろう、と今は思う。勿論、虐めている人より立場の上の人がどうにかできるならきちんと正されるべきなのですが、虐めている側が社長だったのでもうどうしようもなくって!(;^_^)
だから私は会社を辞めたわけですが。

この環境を変えられないし、変える為にエネルギーを費やしても変えられない可能性が高いと何となくわかっているから。私は今でも彼女を残して会社を辞めた事を不安に思う。
(一緒に辞めませんかと言ったけれど、彼女は残ることを選択したので私にはどうすることも出来なかった)

特に人の痛みを理解し、心を寄せて気遣いをすることが出来る人間性の持ち主なら「私のようなものはこういう事には慣れているので」と口では言いながら「慣れる、気にしない」為にかけるエネルギー量が高いのはなおさらのことです。

勿論、本当に言葉通り先生が「慣れているから気にならない」のかもしれませんが…でも「こういう事(の対処法に)には慣れている(から、この場を離れるのが得策だと知っている)」とも取れませんか?


子供の頃は「困難を乗り越え、この人だからこそと認められる」という事にとても希望と憧れを持っており、すべての物事はそうあるべきだと思っていました。
でも現実は、それが起きたとしてもそれでは終わらない。それがゴールではない。

どうしようも出来ないのです。
止められないのです。
子供の頃は、それがわからなかったのです。

もしも校長が願ってルーピン先生を庇い、彼に辞めないでくれと懇願し、彼もそれを承諾したとしましょう。
それが子供の頃の私の憧れた「その人だから認められた」。その夢の先は、その人だからこそ誰もが納得する。
でも実際はそうじゃなくて、フクロウ便は止められない。抗議の連絡は止まらない。デモや署名運動まで行われるかも。彼を庇う色々な人が、そして彼自身が、精神的に負荷を受けていく事は簡単に想像がつく。

……そんなことが起こる前に、辞めるのが良い。
それが大人の社会人の自然な在り方だ、と私は理解してしまった。


この「理解してしまった」ことが、十数年ぶりに童心に還って観たつもりになっていたはずの私には結構きつくって、寂しかったですね(T_T)
大人って汚い。
そしてそれを仕方のないものだとして受け入れてしまう私も汚い大人の一人なのだと思う。辛いなぁ。

だけど、私は出来ればフクロウ便で罵詈雑言を叫ぶ大人にまでは堕ちたくないかなと思う。
子供を心配する親の立場でフクロウ便を送ったとしても、もっと論理的にすべきだと思う。雇った側、本人の人格を否定するような言葉は書かない。

理性のある大人なら、説明を求める場合は感情的になるのを避けなくてはならない。
でも働いてきて実際、そういう罵詈雑言ばかりで一方的に責め立てるだけの問題点がわからないクレームというのも結構あるわけで。

大人として生きるのも本当に疲れます。


そんな中、憤ることが出来るハリーは本当に若くてキラキラしてるな、なんて思ったりして。(映画では怒りよりは戸惑いの方が強く感じられるのですが)
本人が理解しているかどうかはわからないけれど、彼が憤っているのは"先生が辞めなくてはならないから"という目の前の事象に対してではなく、"社会に根付いた差別"に対してだと私は信じたいと思ったのです。

現実の壁…

この3年目の世界では先入観やどうしようもない大人の事情、権力や建前で差別や濡れ衣を着せられた人や生き物が複数登場します。でも、子供たちには発言力がないからどうすることも出来なくて、彼らと同じ目線に立たされる観客の私はただ「大人って汚い」と思う事しか出来なくて。

濡れ衣を着せられた人は救われたけれど、濡れ衣は晴れていない。
差別される人の人間性をどんなに高く評価しようと、差別をなくすことはできない。

子供心に、綺麗に全て解決することを望んでいたけれどハリーポッターシリーズでは結構「現実の壁」が厚くて、犠牲なしで綺麗に解決なんてしないんですよね。
そういうリアルな世界観が人々の心をつかんで離さないのではないかと思いますが。

以前別の記事でも書いたけれど、今作を読んだり映画を観た子供たちが、「大人って汚い(間違っている)」と思って徐々に世界を変えていって欲しいと思います。勿論、本当は原作を読んで欲しいなって思うんですけどね。心理描写は文字化されていた方が情報量が多いですから。

そして、私も多分影響はかなり受けている。あの時「大人って汚い」と感じた事は多分間違いじゃないと思う。
大人の建前なんて理解しない、純粋な子供の頃の大切な感覚。

謎を明かしてほしかった!

公開当時は「原作の重要な部分が削除されてる~!」と憤慨したのを覚えていましたが、今観ると映画としての収まりが非常に良いのがわかってちょっと不思議な感覚です。

勿論、映画だと謎が綺麗に全て明かされないので原作の謎がパタパタと綺麗に明かされていく快感は感じにくいのですが。
…それにしても、ペットが突然得体のしれないおじさんになったらトラウマになるわ

地図を残した「ムーニー、ワームテール、プロングズ、パットフット」が何者なのか、何故ルーピン先生が地図を一目見ただけで何の地図なのか見抜いたのか、ハリーが呼び出した守護霊の姿は何を表しているのか、何故叫びの屋敷は恐れられているのか、シリウス・ブラックがディメンターを出し抜いたのは何故なのか……
パッと上げただけでもこのあたりの説明がされていないのが残念でたまらないです(;^ω^)

特に「ムーニー、ワームテール、プロングズ、パットフットが何者なのか」が明かされるだけでほとんどの謎が明らかになることが相当にエモいと思っており、様々な事象がダブルミーニングになっている事が個人的に凄くそそられるんでしょうね。
ハリーが自分を救ったのが父親だと思い込んだのはあながち間違いじゃない、という事とかね(*‘ω‘ *)

とはいえ、映画に小説と同じ程度の情報量を詰め込むなんて簡単ではなく、小説の文章をすべて映像化すると非常につまらない絵になってしまうのも仕方ない事は理解しているので「原作読んでね!」としか言えませんね(;^ω^)


しかし……話は変わりますが。
スネイプ先生の扱いが原作より映画の方がかなり良い感じなのは、最終作のどんでん返しが想定されていたからなのでしょうね(*'ω'*)
映画で追加されている"獣"からハリー達を庇うシーンは流石にドキッとします。

しかしながら、最終巻を読んでない事も大きいですが、私にとってスネイプ先生は、過去にグリフィンドールの仲良し4人組から受けた仕打ちを知ったところでどうしても好きになれなかったキャラクターの一人です。ドラコ・マルフォイと同レベルの差別発言もしていましたし。
…まぁ、その仲良し4人組で虐めを見てみぬふりをしていたルーピンと虐めに参加していたシリウスと仕事上でうっかり再会することになっちゃったのも可哀想ではあるのですが…すれ違う際に台詞の一つ一つに含む皮肉や、彼の居ぬ間に生徒たちに人狼に関する知識を植え付けて何気なく悟らせようとするとか……共感も賛美もできないのですよね(T_T)
大人って難しい。

変身というモチーフの話

ちょっと脱線します ( `・ω・´)+

私が変身や異形化というモチーフに性癖を持ち、度々エモーションを感じる事は今までもブログに書いてきました。

今作では複数の種類の変身というモチーフが描かれています。
変身したくないのに満月を見ると変身してしまうルーピン、変身を解かない事で自分の身の安全を確保するペティグリュー、変身と変身を解くことを逃走や戦いの手段として使い分けるブラック。
いやぁ、もう、本当。好き。

ちなみに、この三種類の変身の在り方は『ジキル博士とハイド氏』のジキルおじさんは全部盛りなんですけど、人間性クズだから何とも言えない。好きだけど。


この三種類の中で一番エモーションを感じるのはやっぱり「変身したくないのに満月を見ると変身してしまう」…"不可抗力の変身"というモチーフなんですが、その際に苦痛と人格の喪失を味わうのが最高に好き。苦痛…というのはそりゃ自分の意思に反して骨格が伸びたり変形したりするんだから辛くないわけがないんですが。
もう色々飛び越えてエロスを感じる。好き。
変身を自分の意思で操るのは、したたかさがあり周囲も心配する必要がないので一気にエモさは感じにくくなってしまいます。

でも変形よりもっと辛いのはきっと人格の喪失。割と私の統計ですが「自分が自分じゃなくなる感覚」は辛すぎて自害したり殺してくれるように願うキャラクターは多いように感じます。
『蠅男の恐怖』しかり、『バイオハザード』シリーズしかり(*'ω'*)

蝿男の恐怖 [DVD]

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  • 出版社/メーカー: 20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント
  • 発売日: 2005/06/24
  • メディア: DVD

この変身において、周囲で救済しようとしてくれたり、その事実に振り回される周囲の人たちとの関連性も愛おしいです。

ジキル博士とハイド氏』ならアタスンと、一番の被害者のラニヨン。
『蠅男の恐怖』及び原作の『蠅』なら兄のフランソワやアーサー、妻のエレーヌやアン。

今作では過去の時系列のグリフィンドールの仲良し4人組。
グリフィンドールの仲良し4人組の他の3人がしたことは子供の発想という部分も大きいですが、非常にロマンがあって愛おしいです。
ついつい、その幸せがいつまでも続いて欲しいと思ってしまう。

そして、人狼を追い払う際にバックビークが怪我を負わせた後、ハリーが「ルーピン先生お気の毒に」と呟きますが、その後人間に戻ってもその時の怪我が残っているのが愛おしい。


私は少々このモチーフにロマンを抱き過ぎなような気もするのですが、変身や異形化によりその人がその人ではないように見えても、その人であることは変わらない、という概念を愛おしいと思います。
もっとも、変身を突き詰めるとホラーになってしまう(現に、さっき挙げた作品たちは一応全てジャンルがホラーってことになっている)。

私は死というものを「人格の喪失」ととらえている節はあるかもしれません。『バイオハザード』だと人間としての人格が正常に継続しているか否かは肉体の機能を喪失させるか否かの判断基準になる。
その選択を迫られる葛藤、その選択を周囲にゆだねなければならない本人の葛藤…。
出来れば救われて欲しいという願い。

人間性クズと言ってやまない、保身の為に変身し責任を逃れ、自分の意思だったとは認めたくない様子で段々変身が操れなくなっていく『ジキル博士とハイド氏』のジキルおじさんでさえ、変身が解けなくなった姿で構わないから語り部に救い出して欲しいと願ってしまうし、『バイオハザード』で葬ってきた、又は化け物になる前に殺してくれと懇願した多くのキャラクターたちもどんな姿でも構わないから救われて欲しかったと思ってしまう。変身後の姿も受け入れられるって事に等しいのかもしれませんが。

傷や変身の後遺症が残るのは本人だという証。
周囲の人がその人を救おうと努力をすることも、その人がその人であることを認めているから出来る行動。

そして、姿という先入観に左右されない絆はとても深く強いものだと思う。私はそこに愛しさを感じずにはいられない。