私がブログを書くのは「推し文学の魅力を伝えたいから」です。
そう言うと何だか難しい事を言っているみたいですよね。でも、私は全然そんな風には思っていない。私はただ好きなものを「面白いから見て見て!」と叫んでいるだけなのです。
何が言いたいかと言うと、これは私の「推し活」です。そうやって発信する事は、「私の現在の最大の推し、ヴィクター・フランケンシュタインへの恩返しの一部になる」と思っています。それがもう一つの、私がブログを書く理由です。
まずは「ブログを書くことがどうして推し活なのか」という理由についてご説明しましょう。
一言で言えば、同志が近くにいなかったからです。そもそも、推し活と文学というものが結びつきづらいかもしれません。更に、文学と一言で言っても、日本なのか西洋なのか、どこの国の、どこの時代の、誰が書いたものなのか…その領域はとても広い。その中でとりわけ私が愛好しているのは、19世紀前後の西洋文学…所謂ゴシック小説と呼ばれる領域です。そこまで絞っても、ブラム・ストーカー著『吸血鬼ドラキュラ』だとか、ガストン・ルルー著『オペラ座の怪人』だとか、挙げれば切りがありません。さらに絞って、私が「推し文学」として主に挙げているのは、ロバート・ルイス・スティーヴンソン著『ジキル博士とハイド氏』、ハーバート・ジョージ・ウェルズ著『透明人間』、そしてメアリー・シェリー著『フランケンシュタイン』の三作品です。どれも私にとっては重要な作品ですが、どうしてこの三作品なのかと問われれば文学作品の推薦文らしく答える事も出来ます。が、あえて私はこの表現を使います。「推しが尊い」からです。
そう、私の文学の愛し方はオタク的でサブカル的なのです。だから文学愛好家や読書家の人から見ると少しばかり異質らしく、何だか馴染めない。私は色々な種類の作品を読み漁るより、気に入った作品の「もしも」を考えたり、ファンアートを描いたりする方が好きで、どうも愛し方や熱量のベクトルが違うようです。私は難しく考えるよりもオタク的な言語で愛を語る方が性に合っています。
だからといって、オタク活動・創作活動をしている人たちと仲良くやっていけるかと言うと、それもなかなか難しい。こちらでは使う言葉や、愛し方や熱量のベクトルが近いので、そういう居心地の良さはあります。が、今度は愛好作品で溝が出てきます。私が愛好しているものは、作品自体が人々の文化の中に溶け込んで、モチーフ自体は何となく多くの人が知っています。けれど、作品を読んだことがあるという人に出会う方が珍しく、大概「マイナージャンル(?)の愛好家」「変わった趣味の人」という目で見られてしまう。私も漫画やアニメやゲームの話に参加して一緒に盛り上がる事は出来ますが、私の本当に推している物はシェアできないという一抹の寂しさが残ります。
どうやら、文学作品に推しがいて、その推しの為にオタク活動・創作活動をしている私は少し異端のようです。どちらにいても、コミュニティからあぶれているような居心地の悪さが抜けません。
でも、「出会っていないだけで、どこかに私と同じように感じている人がいるんじゃないか」という希望も持っていました。だから私はブログを始めることにしました。誰にも共感してもらえない、誰にも聞いてもらえない、この溢れんばかりの愛を、どこかに吐き出しておかなければ自分がどうにかなってしまいそうだったから。もしかしたら、ブログを書いているうちにどこかの誰かに届いて、「私もこの文学作品でファンアートを描いているんです!」などというメッセージを送ってくれるんじゃないかと期待していました。それが2018年。私が初めてメアリー・シェリー著『フランケンシュタイン』を読んだ年。奇しくも『フランケンシュタイン』初版200周年の年のことでした。
今年でブログ開設から6年目になりますが、私はこの5~6年の間、ファンアートを描いて、漫画を描いて、考察をしたり、愛を語ったりしてきました。凄く「反響があった!」とはなりませんでしたが、たまに頂くメッセージがとても嬉しく、その中には文学作品でファンアートを描いている海外の方もいました。ブログを始めた事や、発信することを決意した事は間違っていなかったし、私にとって大きなプラスになったと思っています。
けれど、5~6年近くブログを続けていると、ふと初期の記事が恥ずかしくなったりするものです。しかも、アクセス解析を眺めていると、当然のことながら文学作品のタイトル名を検索している方が多いらしい。前述の通り文学作品でオタク的な推し活をしている人とはなかなか出会えないので、割合としては読書家の人か、読書感想文などを求められている人が多いのかもしれない。そう思うと、急に恥ずかしくなりました。仕事などの都合でなかなか書く時間も取れなくなったので、時期をみて消してしまおうかと思ったのです。
ところが、私は突然人生の岐路に立たされました。それが、私の「やりたい事」を考える機会になりました。仕事も多分業種を変えるなら今回が最後かもしれないチャンスだし、私は今後の人生について冷静になって考えなくてはならないと思いました。でも…私の「やりたい事」ってなんでしょう?
自分の人生や、やりたい事についてはずっと考えてきたつもりだけれど、答えはずっと保留にしたまま。子供の頃は漫画家になりたいとか、こういう専門職に就きたいだとか思っていましたが、大人になって現実を知っていくと「そこまでしてなりたいものかなぁ」と思ってしまいました。それに、漫画家や専門職に就いたとして、「そして幸せに暮らしました」ではありません。そういった職に就いた後、それによって自分の生活を支えていかなければなりません。ついつい「なること」が目的・ゴールのような気がしてしまいますが、始まりに過ぎず、お金を稼ぐ手段として考えなくてはなりません。でも私が絵を描いたり漫画を描いたりする事と、お金を稼ぐ手段は、結び付けて考えることが出来ませんでした。
結局、私が仕事に対していくら考えても「グレゴール兄さん(=グレゴール・ザムザ)みたいになりたくないと思っているだけ」が回答でした。グレゴール兄さんというのは、フランツ・カフカ著『変身』の主人公で、ある朝目が覚めたら巨大な毒虫になっていた人です。でもそんな姿なのに出社の時間を気にしたり、仕事をクビになるわけにはいかないと、盲目的に会社に行こうとしてしまっている人です。私は彼を「根性論志向のブラック企業に使い潰されて廃人になってしまった可哀想な社畜」と考えています。理由は、私自身が長い期間ブラック企業サバイバーとして生活していたからでしょう。グレゴール兄さんの心理が大いに共感できるし、実際身体も壊しましたし、でも「仕事に行かなければならない、たとえ朝起きて巨大な毒虫になっていたとしても上司に怒鳴られるよりはマシだ!」と思い込んでいました。私はようやくその呪縛から抜け出した。二度とあんな環境には戻りたくない。しかしそれはどちらかと言うと「避けなければならないこと」で、「やってみたい仕事」ではありません。私が「やりたい事」として就いてみたい仕事や業界は、具体的に思いつきませんでした。
いやいや、待てよ。もしかして、仕事という枠組みに囚われてはいけないのでは?
そう思っていると、脳裏に数年前に見たリージェンツパークのバラ園が鮮やかに蘇ってきました。それはブラック企業サバイバーを卒業した時に訪れた、ロンドンにある「聖地」でした。ロバート・ルイス・スティーヴンソン著『ジキル博士とハイド氏』で、ジキル博士の運命が急転する、印象的な公園です。ハーバート・ジョージ・ウェルズ著『透明人間』の文章に出てくる地名から住所を特定して主人公のグリフィンが歩いた道を歩いてみたり、メアリー・シェリー著『フランケンシュタイン』の文章から主人公一行がどうやってイギリスに入国したのか割り出して、同じ景色が見えるようにテムズ川を船で移動したり……。それが私の初めての「聖地巡礼」でした。本当に最高の瞬間だったのを覚えています。お金を貯めて、もう一度出来るでしょうか。スケジュールや予算の関係で行けなかったところにも行ってみたい。いや、むしろ、英語の心配がなくなったらイギリスに住んでみるのもいいかもしれない。これがどんな形で実現させられるのかはわからないけれど、それは私の「推し活」の到達点の一つです。
でも、日本にいながらできる「やりたい事」もありました。
それは「ヴィクターくん(=ヴィクター・フランケンシュタイン)の為に何かしたい」という漠然とした気持ち。しばらく前のことですが、歴史研究者である友人にこんなことを言われたのです。
「貴女が英文学に仕事で関わらないのは英文学の損失だと思う。だから英文学の仕事をして欲しいが、それで貴女が幸せになれるかはわからない。でも英文学は幸せだと思う。仕事にしないのなら、同人誌でもいいから布教本を書いて欲しい」。
この言葉がずっと頭の中に残っていて、数カ月間悶々と考えました。もしも、私にしかできないことがあるのなら、それは一体何なのでしょうか。それはもしかすると、媒体は同人誌でもSNSでもブログでもいいから「私の言葉で発信すること」なのかもしれません。
漫画でも小説でも、考察して分析して、難しく、アカデミックっぽく説明したり紹介しようと思えば、きっと出来るでしょう。それが英文学であれば尚更です。でも私がブログを書く時、ファン活動をする時、私が届いて欲しいと思う相手はアカデミックな層ではなくて、同じ作品でファン活動をしている人、もしくは作品をまだ読んだことのない人…特に「難しそう」だと思って尻込みしている人。そうです、私は漫画やライトノベルを読んでいるオタク層にこそ、英文学の魅力を知って欲しいと思っていたのです。
私は文学作品のキャラクターを「推し」と呼び、「こういうところが可愛い」「こういうところがエモい」等とオタク的な語り方をします。それは決して格好の良い物ではないかもしれません。けれどだからこそ、私にしかできない伝え方もあるのかもしれない。
だったら、「私は微力でもヴィクターくんのイメージを向上させたい。私はヴィクターくんに救われたので、彼のイメージを向上させることで恩返しがしたい」。そう思うようになったのです。
私はメアリー・シェリー著『フランケンシュタイン』を心底「エモい」と思っていますし、「ヴィクターくんに救われた」と思っています。でも、フランケンシュタインと聞いて「ボルトの刺さった継ぎはぎだらけの緑の怪物」ではなく、「雷鳴の中で高笑いするマッドな博士」でもなく、「繊細で内気な、絶望と自責の念に苦しむ青年」を思い浮かべる人はどれくらいいるのでしょうか。「フランケンシュタイン」が生み出された人造人間の名前ではなく、人造人間を創り出した人の名前だと知っていても、その創り出した人が「教授の目にすら怯える大学生」だと知っているのは、原作を読んだ人だけだと思います。
死体から人造人間を生み出してしまう『フランケンシュタイン』の主人公、ヴィクター・フランケンシュタインは繊細な青年です。人造人間を生み出した時、まだ21歳の青年で、目を覚ました人造人間の恐ろしい姿を見た時、自分のしたことが恐ろしくなって逃げ出してしまいます。その隙にヴィクターの学生寮から飛び出した人造人間は、2年ほどの間に言語を習得し、人の世の善悪を理解し、自分がいくら努力しても自分は人間に受け入れられない存在だと理解しました。人造人間は自分をそのように生み出したヴィクターへの復讐を企てます。
そんな物語なのですが、世間一般にしても読者にしても「ヴィクター・フランケンシュタインのイメージはあまり良くない」というのが私の所感です。この作品は創造主(生み出した者)と被創造物(生み出された者)の理解し合えない対立の物語でもあります。だから、どちらかに強い共感を抱くと、もう片方を悪く言いがちになるのは仕方のない事なのかもしれません。レビューや感想を読むと、人造人間に共感する人の方が多いようですから、ヴィクターの印象が悪い意見が多いように見えます。理解はしますが、私は読者同士が対立するような言い合いはあまりしたくない。『フランケンシュタイン』の物語が持っているテーマは、複雑で様々な側面があるので「どちらが悪い」「無責任だ」ではないと思うのです。
そんなヴィクター・フランケンシュタインですが、私は彼が好きで、彼に救われたと思っていて、彼が心の支えだと思っています。だから彼のイメージを向上させたい。可能なら、他の人にも彼の繊細で愛すべき側面がある事を認めて欲しい。小説のキャラクターにしてあげられることなんてほとんどありませんが、発信する事、発信する事をやめない事が巡り巡ってヴィクター・フランケンシュタインのイメージ向上に繋がるかもしれません。それがきっと彼への恩返しになります。
その成果を感じる事もあります。例えば、ブログをきっかけにして仲良くなってくれた人がこんなことを言ってくれました。「私はヴィクターのことを可哀想で優しい子だという感想を抱いていました。でもレビューや感想であまりそう言っている人がいなかったから自分の抱いた感想が不安になりました。でも、貴女のブログを見つけたことで、自分の感想に自信が持てるようになりました」。この言葉のなんと嬉しかったことか!
他にも、海外の人が「私はヴィクターが嫌いだったけれど、貴女の作品や感想を読んでイメージが変わりました」とメッセージをくれた事もありました。知人が「貴女の話を聞いて『フランケンシュタイン』を読んでみたいと思って、本を買いました」と言ってくれたこともありました。それ以外にもたくさんの言葉を頂きましたが、どの言葉も私には最高の贈り物です。私はブログやSNSで発信し続けてきただけですが、きっとこの積み重ねが私のヴィクターくんへの恩返しなのだと思います。
最後に、私は「私が「ヴィクターくんへの恩返し」を兼ねて「文学作品の魅力を発信すること」の相乗効果として、誰かの人生が変わってくれたらいい」と思っています。
幸運なことに、「私の人生を変えた」「私の人生のステージを引き上げてくれた」と思える作品に、私は何度も出会っています。その中には映画やアニメ作品もあるけれど……筆頭は17世紀のイギリスの大叙事詩、ジョン・ミルトン著『失楽園』です。当時、私は16歳。アダムとイヴが知恵の実を食べて楽園を追放された物語の裏には、悪魔の陰謀があった…主人公は天から追放された堕天使の王。彼は、神への復讐の為に神に愛される人間という生き物を破滅させようと目論むダークヒーロー的な存在であり、かつてはルシファーという名の最高位の天使だった…という、サブカル的な角度で見れば年頃の少年少女が好きそうな内容の英文学です。実際、私はそういうものが好きだったのです。『失楽園』の主人公に淡い恋心を抱いたせいで、神話や文学に興味を持ち、インターネットデビューして、文学部の大学へ進学して、気づけば神話や歴史を愛する友人達との15年以上に渡る交流が始まったのです。何が自分の人生を変えてくれるかはわかりません。そういう作品に出会えるだけでも幸運です。
そして『フランケンシュタイン』の最初の書き出しは
創造主よ、わたしを土塊から人の姿に創ってくれと
頼んだことがあったか? わたしを暗黒から起こしてくれと
願ったことがあったか?
『失楽園』第十巻 七四三―七四五行
(引用元 : メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』 芹澤恵(訳),新潮社(2014),p5)
きっとこれもジョン・ミルトン著『失楽園』が導いてくれたことなのでしょう。
文学、漫画、映画、アニメに関わらず、作品には出会う時期があり、その時期が上手く合致すればその作品は自分の心の支えになったり、人生を変えてしまうことだってある。その運命の一作が、文学作品の中にあるかもしれないのに「難しそう」で避けてしまうのは少しもったいない。私がブログやSNSで発信することで、そのハードルを少し引き下げることが出来たら嬉しいです。
願わくば、私の推し文学が誰かの人生のステージを引き上げてくれたら、それほど嬉しい事はないです。
そして私はこれからも発信していきます。文学の魅力、推したちの魅力を発信することが、文学の推したちへの恩返しになっているという事を願って。