海に浮かぶ月のはしっこ

映画や文学作品、神話関連その他の事をおぼえがきしますよ

【読書】本を買う事は知識を買う事。図書館は知識を保存・提供する機関。

先日は珍しく図書館に行って、図書館で一日過ごしてしまいました。

別段、私は図書館に好んで行くような人ではないのですけれど、図書館の存在意義については敬意も抱いているし、久々に行くと「やっぱりいいなぁ」と思ったりする。とはいえ、インターネットの発達した世の中だとAmazonを使えば数日で欲しい本が手に入るわけだし、本を読まなくても済んでしまう事がある。

でも本って要するに「情報」という目に見えないはずのものををわかりやすく形にしたもので、「本を買う」って事は「情報を買う」って事。情報は情報に過ぎないので、その情報を有益なものだと信じるか信じないかは読み手の目利き力が問われてくるから、目利き力を養うにはもっとたくさんの信頼できる情報を知識化しないといけない。
そういうのはレポートを書く時や論文を読むときに大いに問われる力だったりする。

だとすれば、本を扱う仕事は「情報学」であるというのも頷けるだろう。
しかし情報とは移り変わるものではなく、常に増え続けるもの……考えれば考えるほど、沼である。




きっかけは『ドイツ民衆本の世界3 ファウスト博士』という本を探しに行ったこと。



本を戻す時、ふと自分が無意識に書架分類番号を見て戻している事に気がつきました。同じ棚から取った本だからどれがどれだったか覚えてないけれど、分類番号を見ればすぐわかる。

私、実は図書館司書の資格を持っている。
当時は図書館で働きたくて資格を取ったけど…今はもうどうでもいいかな、と思っている。
だって向いてないものね。

司書の仕事に憧れたのは、たまたま本が好きなクラスメイトと本の話題を共有した事で自分が相当に本が好きだと誤認した事、自分の持つ性質によりじっとしていられずよく教室と図書室の間を行き来していた事、それにより図書委員になり読書週間のポスターなどの製作を行うなどの活動をした事、司書教諭先生と関わった事…。
そんなことがきっかけで興味を持ったところ、親に真面目な職業に憧れた事を変に喜ばれた事が決定打になった、のだと思う。

本当に司書になろうと色々足掻いてみたものの、結局ダメで、なんで司書になりたかったかもよくわからなくなってしまいました。


でもやっぱり私には向いてないと思う。
情報管理はそこまで苦手意識はなかったけど、レファレンスは苦手だったし。
図書館には様々な側面があるので、司書として働くには情報管理能力以外にも教育・説明スキルを伴うコミュニケーション能力、依頼を調査する研究スキル等も必要…とのことでした(図書館学ではそう習いました)

ただ、図書館の存在意義は私にとって賞賛に値するものだと思っている。
図書館は知識の格納庫。失われたはずの記憶を半永久的に保管する場所。そして、知識を求める者なら誰でも利用できる開かれた空間である。図書館の持つ独特な雰囲気はやっぱり好きなのだと思いましたが、やはり今は司書として働きたい欲はないかな…と思う。


利用者として図書館を訪れると、いつもはAmazonとかで該当の本を探している時は起こらない現象…ブラウジング効果が生じてきます。棚を眺めているだけで興味の範囲が広がっていったり、欲しい情報が派生していったり。
特に図書館の本は分類学に基づいて並んでいるから、そういう現象が起こりやすいと言われてるんですよね(まぁそれも図書館学で習った事の受け売りですけど(*‘ω‘ *))

……と、そういう名称が与えられた図書館の効果によって、一冊借りて帰るつもりだったのにすっかり閉館時間まで居座ってしまいました(;´・ω・)


ドイツ文学の棚から、隣の英米文学の棚へ。
シャーロック・ホームズシリーズの並びからス――っと目線をずらしたら、西洋文学史のコーナーに。
そこからはもう止まらない。あれよあれよとたくさんの本を抱えて閲覧席に移動してからはどんどん時間が解けていく。

勿論全部を読んだわけではありませんが、自分の求める情報があるかどうかは一通り目を通しました。
そしてこの時、文学作品における聖地巡礼(=自分の好きな作品のゆかりの地を歩くこと)が「文学散歩」などの名称でそれなりに本がでているジャンルだと知りました。

というわけで、「旅行記」の棚へ行って、そういった旅行記と文学を結び付ける内容の本を探しまくり、あれよあれよという間に借りた本は6冊になってしまいました。

その後すぐにもう一冊増えてしまったのだけれど。


そうそう、目的の本はこれ、『ドイツ民衆本の世界3 ファウスト博士』。

ドイツ民衆本の世界 3 ファウスト博士

ドイツ民衆本の世界 3 ファウスト博士

最初期に近い頃の物語化されたファウスト伝説が書かれている本ですが、絶版です(;´・ω・)

私の愛してやまない『フランケンシュタイン:或いは現代のプロメテウス』の原作は原作を読もうと決心すれば結構簡単に手に入る本ですが、「本来の元々の姿」を知ろうと思っても、もうゲーテの戯曲の『ファウスト』の存在が大きすぎて最初期の頃の姿を確認しようとすることは困難です。

ファウスト(一) (新潮文庫)

ファウスト(一) (新潮文庫)

なんで…こっちが本来の姿なのに!
…と私がどんなに『フランケンシュタイン:或いは現代のプロメテウス』のヘタレ天才大学生ヴィクター・フランケンシュタインくんに過保護になろうと、ハロウィンのマスコットが「ボルトの刺さった緑の肌の四角い大男の名前がフランケンシュタイン」という状態を変える事が出来ないのと同じくらい、現在に受け入れられているファウスト博士の姿はゲーテの描いたファウストなのです。

という事を踏まえると、原作を読もうと思えば読むことができる『フランケンシュタイン:或いは現代のプロメテウス』はまだ幸せな方……なのかしら(-_-;)
そもそも、ファウスト博士は実在の人物で、悪魔と契約したというのも単なるうわさ話が物語として定着したに過ぎないようですから…。


なににせよ、その大元となった物語を知るために、「本」という保存可能な姿に変換された知識は図書館に求める事が出来る。絶版になってしまったら本来手に入れる事の出来ない知識のはずですが、図書館を探し回れば辿り着くこともできる…かもしれない。
大学図書館にしかない、とかだと手続きが面倒なので諦めてしまう事も多々なのでした。。。)

絶版本、イコール失われた知識を求める事が出来るというのも図書館の大きな役割だと思うのです。
私はしょっちゅう図書館に通うような図書館っ子ではないのですが、そもそも私は図書館に最新情報や流行・話題の本を求めることはなく、本(知識)にお金を出して買って所持することに意味を見出しているタイプの人間なので図書館よりは本屋へ足を運ぶことの方が多いです。
…だけど、絶版の本は、本屋を渡り歩いてもなかなか。
古書店は宝さがしみたいなもので、運良く目当ての本に辿り着けるかどうかもわからない。昔は古書店巡りに目を輝かせていたけれど、今は目的達成までの時間を重視してしまって「あんまり効率的ではない」と思ってしまっている…。


その点、図書館では分類や検索システムで凄く効率的だなぁと感じてしまうのですが、大学時代はそういう利点がよくわからなかったので「なんで図書館学でウェブページを作らなければならんのじゃ…」と納得いかない気分で、検索機能付きのバリアフリーウェブページをhtml打ちして作ったものです。
うん、当時は納得いかなかった(苦笑)
今思うと図書館の存在側面的にはとても重要な事だったと思うけれどね。誰でも本(知識)が得たいなら得ることができる場所があるって素晴らしい事だと思う。

とはいえ、電子化社会の流れで紙の本が軽視されているような、色々と不穏な話はよく耳にしますし、貴重な本を求めて県立図書館に行ったら跡形もなくなっていた時は開いた口がふさがらなかったけど、図書館という存在には敬意を持っています。

けれど、何だかやっぱり図書館の在り方が脅かされる不穏な話は絶えないので、不安にならざるを得ないのでした。